「題名のない音楽会」という番組がある。とても残念だったのだが早朝の番組に変わってしまって久しい。どうしてこんなに良い番組が早朝(am6~)に変わってしまったのか、と思わざるを得なかった。ボクの勝手な勘で「きっと料金の安い時間帯に移さざるを得なかったのだろう」と思っている。以来、録画しておいて見続けている。
 短い番組だが幾つか特色がある。その一つは番組の途中には一切コマーシャルが放映されないことだ。これは番組提供者にとって大した決断であろう。見たい番組の途中でのコマーシャルこそ、見ざるを得ないと思い込んでいるのが番組提供者ではないのか。だが、ボクは録画してある番組ではコマーシャルは極力飛ばして筋道にそって見ている。コマーシャルが多すぎて舌打ちしたくなるような番組が大半だから…。名のある俳優たちが舞台に流れる一因にもなっていよう。テレビが安上がり文化に成り下がる原因はテレビ自身にあると思える。
 最後になるが番組提供社にも触れておきたい。この番組を提供しているのは出光興産という会社だ。出光を調べると民族資本であると書いたものもあった。少し気にいるが…。ともあれコマーシャルがとても綺麗・美しくて気に入っている。毎回全部見ている。
 というわけで「題名のない音楽会」のことを書いた。いいのかな?
 

 僕の名は功という。よくある名前だ。「殊勲功なり」という言葉がある。また「勲功夥し」などという言葉もある。「勲」という字も「功」という字も単独で読めば「いさお」となる。「勲功」とは国家や君主につくした功績や褒美を意味するものだ。
 同世代には勲という「いさお」や功という「いさお」を名乗る者はごろごろいた。みんな「お国のために…」という軍国主義教育の結果であろう。
 中には「かつとし」「まさる」という名の者も結構いた。勝利、勝などと戦争に勝つことを信じこんだ名前も少なくない時代であった。
 まさに戦争のまっただなかに生をうけたことを象徴する名だったのだ。
 
 

 僕が生まれたのは1944年(昭和19年)8月8日。生地は当時の戸籍簿では中華民国山西省楡次県楡次城内となっていた。地図で見るとかなり辺鄙な所らしい。戦後生まれの口さがない連中には「戦中派」と冷やかされたが、終戦前年のこととて記憶は全く無い。
 で、父母の語ったことから類推するほかないのだが…!
 父がその頃、勤務していたのは華北鉄道だった。その沿線に石華線があった。本拠地は太源である。家族が楡次に配されていたのは何かわけがあったのだろう。父の仕事は何とも奇妙なものだった。普段は乗客を装ってパリッとした服装で客席にいる。ただし、両脚の内側にはそれぞれ数発の弾を仕込んだモーゼル銃がある。いざ!という時の備えである。時には、現地の少年を引き連れ、ご当地の装いで村々を歩く。と、村長や村の偉いさんらが大歓迎をしてくれる。僕は宣撫工作の一種ではなかったかと考えている。そんなわけで酷いことはしなくて済んだ。引揚げの苦しい時にこれが役に立ったようだ。何度も現地の人に救われている。終戦の直前まで僕らはのうのうとくらしていた。羽振りも良かったにちがい無い。
 終戦の1ヶ月前、父は太源・石華線の本拠地に足止めされたままであった。多分、終戦近しという情報が入っていたのでは無いか?と疑われる。母は何も知らずに安穏と暮らしていた。天皇の玉音放送のことも知らなかった。しばらく経って父から電話が入った。「聞いたか?」「知らん!」「戦争に敗けた!」
 この時から、引揚げの苦労は始まるのだが…!

 「焼け跡闇市幼少時代」というカテゴリーを起こしてみることにした。変な名前だ。が、僕には感ずるところがある。「焼け跡、闇市」で少年時代を過ごした人たちがいた。本を書いた人もいる。もちろん戦後のことだ。僕はその頃子どもであった。記憶も少ししか無いのだが、いつの間にか歳はくった。もう77歳、喜寿を迎えてしまった。何かを語り継ぐべき歳になったのかも知れない。せめてその一端を書き留めておこうと思い立った。

 本来は正確な事実、調査や裏付け資料などが必要なのだろう。が、あえて記憶にだけ頼るという冒険に挑もうと思う。だから、間違いや不十分なところが曝け出される可能性がある。それでも構わない。曝け出すというのはそういうことではないか。いささか恥ずかしく、照れくさくもある。
 どんなことになるのか、まったく見当がつかないがともかく書き始めてみる。