西行絵巻 ー 物好きの深読み Ⅲ

 第三首 水の音に

 水の音に暑さ忘るるまといかな
     梢のせみの声もまぎれて


 詞書きに「水辺納涼と云事を北白河にて詠みける」とある。その意は「水辺に近い席で親しい人たちと車座になって語りあおう。水の音が暑さを忘れさせてくれる。梢の蝉の声も水音と一緒になっていかにも涼しいことだなぁ」というところだろう。
 「まとい」とは「まとゐ(円居・団居)」、「まどゐ」とも言い、車座になって座ること。会合の意味もある。「北白河」は現在の白川通り以東、今出川通り以北の一帯を指す地名。筆者は学生時代この辺りで貧乏暮らしをしていた。盆地特有の冬寒く、夏暑いところである。この歌は完成度も高く、涼しげな歌なので「団居(まどい)」という言葉に着目しつつも、「深読み」するにはとまどいがあった。しかし、次のように評定する人もあり、意を強くした。
 曰く「詞書の意味を考えると『水邊納涼』という歌題から詠まれたものでしょうか?であれば、西行はこのまとゐの内外にはいないことになってしまいます。音付の絵のようなイマジネーションが『水邊納涼』という歌題から西行のあたまのなかで駆巡ったことでしょう。それともそんな体験を思い出したのでしょうか?」

 水の音に暑さ忘るるまといかな梢のせみの声もまぎれて

 物好きは「まとい・会合・談合」に着目して、「水辺納涼にことよせて話し合う、談合の場を設けたよ。せせらぎの音、せみの声にまぎれてその内容は聞こえまい」と読んだのだが、状況の把握に迷いがあった。やはり単なる抒情かな、と。
 そこで、佐藤義清出家の前後はどんな時代であったのか、と考えてみる。出家は23歳の保延6年(1140年)。西行が崇敬していた崇徳が鳥羽上皇に譲位を強いられ、不満を募らせ始めたのは翌年の保延7年(1141年)であった。武家、皇族入り乱れての争乱となる保元の乱の序章がそこにある。西行の出家には諸説があると前に触れたが、その一つに源氏や平家、皇族の争いの気配を察して身をかわしたという説もある。
 しかし、出家して後も義清は世俗に触れていた。この歌はその機微を示す歌のように読めなくもない。後に見ることになるが、西行は崇徳亡き後の讃岐に参り、頼朝と接見し、奥州に出向くなど、極めて政治性の高い行動をしてもいる。鳥羽上皇の崇徳に対する仕打ちに非をならす血気盛んな青年たちが、納涼の宴席にことよせて気炎をあげた一場。侍の身を捨てたとはいえ、西行はそのような場のあることに共感していた、と読むのはあながち「深読み」とばかりは言えまい。

* 追記 *
 崇徳が鳥羽上皇に疎んじられ近衛天皇に譲位せざるを得なかったことは、あちこちの資料に見られる。その年はいつか。とりあえず、手持ちの資料によって上記のように1141年と記したが1142年(永治2年)4月28日と日まで明記した資料もある。
 しかし、手持ちの西暦との対比表によると保延は6年(1140年)までしかなく、保延7年という年は無いようである。永治は1141年の1年だけだ。1142年は康治元年となっている。永治2年も無いように見える。だが、元号は年の途中でも変わるのだから西暦による暦年だけではわからない。もう少し探してみると、崇徳在位の終年頃の元号は保延1135年4月27日〜1141年7月10日、永治1141年7月10日〜1142年4月28日とする資料が出てきた。してみると、崇徳の譲位、近衛の就位はどさくさ紛れの最中にあり、永治元年つまり1141年7月10日以降、永治2年、1142年4月28日までの間にようやく決着したものと思われる。
 この歌は崇徳退位後最初の夏の「まどゐ」を詠んだものなのか。