西行絵巻 ー 物好きの深読み Ⅷ

第八首 さびしさに


さびしさに堪えたる人のまたもあれな
        庵ならべむ冬の山里


 手持ちの古語辞典では「(この山里の)寂しさにじっと耐えている人が、(自分のほかに)もう一人あってほしいなぁ。草庵(そうあん)を並べて住もう、この冬の山里に」と訳されている。この後に「そうすれば、この寒さもきっとしのぎやすいだろう…」と意訳をくわえる人もいる。
 この「山里」はやはり吉野か。「奥千本の谷間には西行が3年ほど侘び住まいをした、小さな庵が残されています」という人がいる。庵が本物かどうかは知らないが、西行がこの山里に滞在したことは間違いない。後世、西行を師と仰ぎ、足跡を訪ねて旅を重ね「奥の細道」をものにした松尾芭蕉はこの吉野にも足を運んでいる。
 さて、古語辞典には「堪えたる人」の「たる」は完了(存続)の助動詞「たり」の連体形とある。とすれば、単に「がまん」し、「耐えている」だけではなくそれ相応に耐え抜く力、言ってみれば「悟り」の境地に立つことのできている人、ということになろう。また「あれな」の「な」は詠嘆の助詞とある。「あればなぁ」つまり「おられればなぁ」ということになる。
 気になるのは「(自分のほかに)もう一人」と訳されていることだ。他の解釈などをみると「一人」と限定した注釈はあまり見あたらないのだが…。そのカギは「またもあれな」の「またも」というところに隠されているようだ。「また」は普通には「同じように、やはり」などの意味で使われるが、「別に、ほかに」という意味で「一回、一度、一人」に限定して使われることもある。そして「も」には色々な用法があるが、「せめて〜だけでも」とか「〜なりとも」という仮定希望の意味、用法がある。そうすると「もう一人あってほしいな」という解釈が成立するのである。そもそも、「さびしさに堪えたる人」がそんなにたくさん居るわけはないのだ。

さびしさに堪えたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里

 ところで、今まであまり気にもとめずに読み飛ばしていたことだが、広辞苑の短い解説に西行が「述懐歌にすぐれ…」とある。今後、読み進む幾つかの歌にも典型的な「述懐」の歌が出てくる。その「述懐」には、自分を省みてその凡俗ぶりや道を極めきれない、悟りきれないことへの自嘲と言わぬまでも、照れ、苦笑いするかのような歌がある。
 この歌もその一つのようだ。妻子も地位も捨て、世俗を断って、出家、漂泊の決意をしたはずの自分が、同じ寂しさに耐え、一緒に庵を並べてくれる人を求めている。孤独に耐えきれず、寂寥感に浸る己へのかすかな羞じらい、自省・自嘲の響きがこもる歌だ。