西行絵巻 ー 物好きの深読み Ⅸ

第九首 嘆けとて


嘆けとて月やは物を思はする
    かこち顔なるわが涙かな


 今回は百人一首にも採られていてあまりにも有名な歌なので、気ままな解釈をほどこす余地はほとんどない。そこで「評解小倉百人一首」(京都書房刊)という古びた小冊子から「歌意」を引いてみよう。
 「嘆き悲しめと言って、月は、わたしに、あれこれ恋の物思いをさせるのだろうか、いや、そうではない。(それなのに、)月にかこつけがましくこぼれ落ちるわたしの涙であることよ」とある。ずばり「恋の歌」と断定するのは詞書きに<月前恋(げつぜんのこい)といへる心をよめる>とあるからである。場は<御裳濯川(みもすそがわ)歌合>ということだ。
 冊子にはさらに「主旨」として「月をながめても涙がこぼれるほどの、恋の相手のつめたさに対する恨めしい気持ちと嘆き」とある。
 この冊子にはさらにさらに「表現と鑑賞」も書かれている。長くなるが引用してみる。
 「古人は、月は物思わせるものだという。けれども、この悲しみは月のせいではないと知りつつ、『なげけとて月やは物を思わする』と、なお自分の心に反問し、確かめてみないではいられない心情である。悲しみながらも、無情なその人を恨みきれずに、『かこち顔なるわが涙かな』と、自己の愚かさを嘆く風情に表現する」とある。

嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな

 西行にとって、いや佐藤義清にとって恋の相手が待賢門院璋子であることは疑いない。だが「恋の相手のつめたさ」、「無情なその人を恨みきれず」とはどういうことなのか。
 思い起こされるのは白河院の愛妾であり、鳥羽院の中宮でもあった璋子と懇ろな仲になったとき、「帝に発覚すればどうする」と迫られたとか、「『あこぎ』の歌を読みかけられて失恋した」などと伝えられていることだ。「あこぎ」とは古語辞典によれば「阿漕」と書き、「物事がたび重なること。ずうずうしいこと」などとある。西行は発覚をおそれ、難を逃れようとして出家したのだった。とすると西行は振られたのか、弄ばれたのか。いずれにせよ、西行は長く璋子への未練、都への未練を断ちかねたのであろう。まさに「自己の愚かさを嘆く風情」なのだ。
 先ほどの冊子は「この一首、題詠の恋歌ではあるが、西行の『人間』への人恋しさの心情さえ感じさせる」と「鑑賞」を結んでいる。

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☆ 写真 ↑万葉仮名のカルタ
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☆ 石川河川公園「西行絵巻」より