西行絵巻 ー 物好きの深読み  Ⅺ

第十一首 知らざりき

知らざりき雲井のすそに見る月の
      影を袂にやどすべしとは


 この歌は石川河川公園の陶板に刻まれた通りに引用しているが、少しちがう表現のものがある。
 「知らざりき雲井のよそに見し月の影を袂にやどすべしとは」というものである。
 「すそに見る月」と「よそに見し月」の違いなのだが「たいして違わぬ」とみるむきも、「全く違う」と読むむきもあるようだ。筆者は大いに違うと思うが、どちらが正しいのか詮索する力がない。このシリーズはもともと門外漢の身を省みず、石川河川公園にある「西行絵巻」の紹介を企図して始めたものなのだから、当然のこととしてこの「河川公園」の歌を採用する。
 素直に読めば「大空にかかっている月の影が私の着物の袂に宿っているとは全く気がつかなかったよ」と読める。
 「知らざりき」は「気がつかなかったよ」でいいだろう。「雲井」は「雲居」とも書き、普通には「雲のあるところ、そら、雲」であるが、「遠く、高く離れていること、雲のうえ」、さらには「宮中、皇居、みやこ」などの意を含む。となれば、なにか妖しくなってくる。
 「すそ」か「よそ」か、「見る月」か「見し月」か、判然とはしないが、下の句に「袂」とくるのだからここは「すそ」つまり「裾」と解したい。また、「見る」、「見し」についても時制の問題として過去に「見た月」よりも、今「見ている月」を採りたい。
 但し、「見る月」を採ると「知らざりき」はホンの少し前まで「気がつかなかった」という短いスパンになるが、「見し月」を採ると「知らざりき」は「あの頃はまさか知らなかった」という長いスパンで読むことができ、これはこれで味わいは深い。

 知らざりき雲井のすそに見る月の影を袂にやどすべしとは

 ところで、筆者はもとより門外漢、浅学の身でありながら「西行絵巻」がここにあるからという理由だけで、西行の人生を考え、時代背景に思いを巡らし、作品の中にある妖しきものを嗅ぎ取って、「深読み」を試みてきたのだが今頃になって嬉しい発見をした。研究、研鑽を重ねてこられたその道の方々には「何をいまさら…」とお笑いぐさだろうが、ポイントだけを紹介しておきたい。
 「明恵上人伝記」という書に「西行法師常に来たりて云はく、『我歌を詠むは、遥かに尋常に異なり。花、ほととぎす、月、雪、すべて万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是虚妄なること、眼に遮り耳に満てり。又詠み出すところの言句は、皆是真言にあらずや。花を詠めども実(げ)に花と思ふことなく、月を詠ずれども実に月と思はず。…(略)…一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ』云々」という記載があるというのだ。詳解は省くが
 「花を詠めども花と思わず、月を詠ずれども月と思わず」、「秘密の真言を唱える」
というのだから、筆者が「西行の歌は花鳥風月の絶唱それ自体が味わい深いが、それとは別に折々の心象を深読みさせる不思議な魅力がある(第一首のくだり)」と書き、深読みを続けていることはあながち見当はずれの「物好き」でもなさそうではないか。
 さて、この歌「知らざりき…」も実は「月」と題した一連の「恋歌」の中にあるのだから、西行が「月」に仮託するのは「恋、恋人」とみて自然だ。すると、西行が遥かに眺める「月」、都におわす璋子への恋慕、忘れたつもりでも忘れきれず、その面影を未だに「袂」、胸の内に宿し、裳裾を涙で濡らす西行の詠嘆が見えてくる。都への、璋子への郷愁の歌なのである。
 


 

 
by itya-tyan | 2009-06-14 11:16 | Trackback | Comments(0)
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