冨田林・寺内町、そして露子のことなど ⑤

 明治に入ってから加えられた十三世上人 
 発見というのは大げさかも知れませんが…!
 十三世上人にまつわるこんな文章を発見したのです。

 光教上人は、歴代としては興正寺の第十三世とされています。
 光教上人を歴代の十三世とするといっても、興正寺が光教上人を歴代に加えたのは明治時代になってからのことです。それまでの興正寺では光教上人を歴代には入れていませんでした。一方で、興正寺と同じ系統である佛光寺では、江戸時代を通じ、光教上人を歴代に数えていました。興正寺でもそれに倣い、明治時代となって上人を歴代に加えました。
 興正寺と佛光寺の所伝が違うというのも不思議な話ですが、興正寺が光教上人を歴代としていなかったのは理由があってのことです。興正寺と佛光寺は、蓮教上人が興正寺を再興することにより分かれますが、この時、蓮教上人が興正寺を興したのに対し、光教上人はそのまま佛光寺にとどまります。その際に佛光寺に生じた混乱を収めたのも光教上人で、当時から佛光寺では光教上人を「中興開山」と呼んでいました(長性院蔵「絵系図」)。このため興正寺では、上人を歴代に加えることはありませんでした。

 この文章もインターネットで閲覧できます。真宗興正派・本山興正寺のホームページです。ホームページに掲載されているのですからいわば「正史」とみなしてもよいでしょう。 ここです。 左側の下の方に「興正寺史話」が50回にわたって連載されています。その中の第44話のくだりの一文です。
 その中で「光教上人を歴代に加えたのは明治時代になってから」「それまでの興正寺では光教上人を歴代には入れていませんでした」というのですから、「証秀上人は16世ではなかった」ということになります。
 しかし、証秀を14世とするにはもう一人誰かが上人の座から降りなければなりません。注目されるのは8世、9世の関係です。興正寺、仏光寺関係の文献などをみると、親鸞、真仏、源海、了海、誓海、明光、了源までの7代は同一です。しかし、「真宗法脈史」で8世とされる源鸞(了源の子)については「早世」とし、9世とされる「室了明尼(了源の妻)」を「八祖」つまり「8世」としているものもあるようです。了明尼が事実上の上人として興正寺・仏光寺の采配を振るっていたことは事実のようですから、源鸞が8世と扱われていなかった時代があるのかも知れません。
 
 
by itya-tyan | 2010-06-12 16:55 | 冨田林・寺内町、そして露子 | Trackback | Comments(0)
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