8月15日という日を過ぎて…

 これは、倉本聡さんの言葉です。
 「僕は戦後、韓国、中国ヘ1度も行っていません。行けないんですよ。僕は当時子どもだったから戦争はしてませんけど、罪の意識があって、足を踏み入れられないんです」。

 この言葉に共感を覚えつつ2ヵ月半。単純な共感ではない、と苦悶の日々が続きました。
 ボクも身に覚えはないけれど、憶えはあるのです。
 ボクの戸籍謄本には「中華民国山西省愉次県愉次城内にて出生」とありました。終戦?敗戦?の直前まで、ほのぼのとした可愛い坊や!であったのです。
 父は当時、華北鉄道石家線の保守を担当する宣撫工作員だったようです。沿線の村人と親しくつき合う人であり、仕事でもあったのです。父母からは、沿線の人たちとの微笑ましい交遊の思い出を沢山聞かされました。
 相対的には「高級」の職種であり、世にきく「残虐な行為」には直接参画した気配はありません。
 しかし…、その全体は「侵略者」のお先棒を担ぐ「善意の人」だったのです。
 母は「昨日まで私らをチヤホヤしていた人たちが、掌を返したように冷淡になった」と中国の人たちを恨み続けています。侵略の事実を認識できない母の恨みです。
 父は、戦後、いささかその事実を確認したようでした。「反戦」の信念においては凄まじい迫力のある男になりました。

 さて、ボクです。
 ボクは、再三ならず、中国への「(観光)旅行」に誘われました。諸外国へも…。でも、ボクは行けません。どうしても行くなら、中国山西省愉次県が振りだしと心に決めていました。
 覚悟を決めて謝罪に行くのです。「日本鬼子」、「東洋鬼子」その償い無しには外国へ行くことはできません。敗戦までのほぼ一年、ぬくぬくと育っていたボクの写真がほんの数枚ですが、今も残っています。母が「命がけで」ポケットに忍ばせてきた写真です。
 ボクには、帰るべき故郷がありません。山西省という地、愉次という地を故郷とはとても言えません。無念の限りです。
 
 命からがら引揚げ、上陸したのは山口県の仙﨑港でした。幼い頃から、一度は行ってみたいと思いつつ、あえて行くことはありませんでした。
 でも、ふとしたことから心を寄せて熟読した詩人、金子みすずの故郷が仙﨑と知り、訪れる気持になりました。案に違わずいいところでした。「ここに引き揚げ船が着いた」という波止にも行きました。粗末で、貧相な波止です。
 「ようやくここまで来れた。これなら海を越えて(中国にも)行けるかも知れんなぁ」という感慨を持ったのは事実です。
 でも、やっぱり行けません。どう考えても、「観光」に通ずるしかない旅は苦痛です。
 
 ボクのこだわりです。笑う人がほとんどです。でも、中には共感してくれる人もいます。
 とうとう、69歳になりました。中国で生まれ、中国から引き揚げ、二度と海外に出なかった凡人、それでいいのではないか!と思います。
 倉本さんの決意、思いとは少し違うのかも知れませんが、ボクには忘れられない励ましの言葉となったのです。

 
by itya-tyan | 2013-08-18 21:29 | 喜怒哀楽をともに… | Trackback | Comments(2)
トラックバックURL : http://isao3264.exblog.jp/tb/20868979
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by nori at 2013-08-22 21:26 x
私の友人がかつて話してくれたことです。彼女は中国人で今は北京の大学の研究者をしていますが、かつては観光客のガイドもしていました。「日本人は戦争の時の謝罪を常にしてくれる。たいていの年輩の観光客はそうだ。でも、私は過去のことはいいから、これからは互いに戦争をしないようにと願っている。」
最近は謝罪の意識もないような観光客も増えたのだろうなと思います。
Commented by itya-tyan at 2013-08-23 13:17
☆noriさん コメありがとう!
 過去をしっかり見つめることが、未来を確かなものにすると思っています。
 ボクが、海外へ行かないこととは。直接の連動性はありませんがネ!