3月1日という日のこと

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b0142158_2340536.jpg1954年3月1日。ボクはまだ9歳だった。この日ビキニ環礁で行われた水爆実験(キャッスル作戦)では、広島型原子爆弾約1000個分の爆発力(15Mt)の水素爆弾(ブラボー)が炸裂し、海底に直径約2㎞、深さ73mのクレーター(通称、ブラボー・クレーター)が形成されたという。
 ビキニ環礁と言われてもどこにあるのか検討もつかなかった。しかし、ビキニ環礁という固有名詞は鮮烈に記憶に残っている。今になって思うのだがブラボーなんて如何にも人を食った、ふざけた命名ではないか。
 このとき、日本のマグロ漁船・第五福竜丸(写真)をはじめ約1000隻以上の漁船が死の灰を浴びて被曝した。また、ビキニ環礁から約240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り積もり、島民64人が被曝して避難することになった。
 死の灰。ガイガー計数管。放射能マグロなどなど、子どもながらも鮮烈に記憶した言葉の数々は今も脳裏から消え去ることはない。
 「三度許すまじ原爆を」というもの悲しい歌を裏切って、4度目の核被曝を経験したおぞましい日が1954年の3月1日だったのだ。

b0142158_2351359.jpg 記憶を辿りつつ当時のガイガー計数管の画像を探してみたが、フクシマの影響か極めて新しいコンパクトな線量計ばかりが見つかる。なおも探すとこんな写真があった。旧式のバカでかいボクの記憶にある計数管が使われている。確かに記憶に残る「原爆マグロの放射能検査」風景だ。今で言う風評被害も大変なことだったろうが、得体の知れない恐怖に国民みんなが取り憑かれていたのではないか。
 後に知ったことだが俗に「死の灰」と言われていたのは「放射性降下物」という。この「死の灰」を浴びた第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉 (くぼやま あいきち)さんが半年後の9月23日に死亡した。まだ50歳だった。
 
b0142158_0432328.jpg ここに遺児(長女)みや子さんの当時の手記がある。
 死の灰にまけてならない、一しょうけんめいにこの灰とたたたかって、かならずよくなるといいつづけていたお父ちゃん。
 家へかえられるようになったら、私たちをどうぶつえんにつれていってあげるよとやくそくして下さったおとうちゃんなのに、いまは私がおとうちゃん、みやこ子よ、と耳元でよんでもなんとも返事をしてくれません。
 きのうも今日も重体のままです、ほんとうにかなしくておとうちゃんのまくらもとで泣いてしまいました。
 小さい安子やさよ子は上京していませんが、遠くはなれている家できっと泣きながら小さい手を合わせてかみさまにお祈りしていることでしょう。
 毎日私はおかあさんといっしょうけんめいかんびょうしています。おかあさんは泣かないでと言いますが、そのおかあさんもなみだをいっぱいためているのです。みや子はなおかなしくて泣きます。
 大ぜいの先生がたやかんごふさんがよるもねないで、おとうちゃんのちりょうに一しょうけんめいにつくしてくださっています。先生おとうちゃんをたすけてください。
 私たちがめんかいにいくと、にこにこしながら、みんなごくろうさん、よくきてくれたね、とよろこんで私たち三人のあたまをなぜてくれたり、一ばん小さいさよ子をだいたりしてくれたのに、こんな事になるとは、みんなあのすいばくじっけんのためなのです。あのじっけんさえなかったら、こんな事にならなかったのに、こんなおそろしいすいばくはもう使わないことにきめてください。
                  九月三日  久保山みや子


b0142158_0482755.jpg夫人のすずさんは、夫を偲びつつあちこちで切実な訴えをされていた。子ども心に一見如何にも漁師の嫁さんという風情の夫人の行動と発言にに感動することしばしばだった。
日本母親大会でのあいさつ
 みなさん!人間が人間を殺してよいものでしょうか。人間が人間を殺す兵器をゆるしておいてよいものでしょうか。死の床に横たわりながら、死の直前まで、夫はこのような恐ろしいものを許しておくことはできない、どうしてもなくしてしまわなければならないと叫びつづけました。このような恐ろしい兵器があるかぎり、わたしたち日本人は生きていくことができません。
 先日わたしは、一人のアメリカ婦人から、心のこもったお手紙をいただきました。その方は、ほしいものはなんでも送るといってくださいました。けれどもわたしたち親子には、ほしいものはなにもございません。ほしいものは夫の命だけです。子どもたちに父親を返してください。けれど、それは到底できないことです。いまわたしたちが一番ほしいのは、原水爆をやめてもらうことです。犠牲者は一人でたくさんです。これはわたし一人のねがいではございません。ほんとうの母の愛情は、こどもを守ることだけではなく、戦争をやめさせることです。
 戦争による不幸、原子兵器による不幸を、わたしたちは世界のどこの国よりも早く体験いたしました。この戦争をやめさせることが、子どもたちを幸福にする道です。戦争をやめてください。これが夫の最後の声でございました。
みなさん!戦争をなくしてください。平和を守ってください。
                  一九五五年六月七日

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この顛末は第五福竜丸展示館による第五福竜丸(クリック)にくわしい。少し時間がかかるがぜひお読みいただきたい。
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また、新藤兼人監督、宇野重吉、音羽信子主演の映画も制作された。今なお、名作との誉れは高い。
 映画・第五福竜丸(クリック)

 さて、2014年3月1日の今日、マーシャルの首都マジュロで開かれた式典には80歳を迎え「これが最後」と意を決めた大石又七さん(第五福竜丸乗組員)や福島第一原発被災者の若者達が参加したと報道されている。被爆と被曝、放射能と放射線は厳密には違うとも言えるが、「手をつなぎ、教訓を共有し課題に向かい合う。そうすることが核のない世界の手がかりになるはず」との若者の言葉に励まされ、共感する。
 ボクはいま一度、ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・フクシマの声を大きくあげていこうと決意を新たにしている。
by itya-tyan | 2014-03-02 01:37 | 喜怒哀楽をともに… | Trackback | Comments(0)
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