母の遺骨を納骨しました

母の遺骨を納骨しました_b0142158_21523087.jpg

特段の信心心は持ち合わせないが、毎日お茶をかえ、野草を飾り、線香を立てて、この日を待ちました。
必死にボクを守ってくれたであろう若き日の母を思うと、特段の母性を感じずに過ごした思春期や青年期が悔やまれます。
その悔悟と感謝の一端は今夏に投稿した大阪民主新報に忍ばせたつもりです。
戦後どさくさ幼少時代の記憶 
私は1944年(昭和19年)生まれ、戦後生まれの人からは戦中派と言われ、戦中派からは「あの過酷な戦争のことは記憶にあるまい」と言われる中途半端な世代です。軍や政府の中枢は敗色濃い戦局を知っていたはずですが、庶民の大半は「神風が吹く」と、戦勝を信じて疑わなかった時代です。ですから、武勲功という言葉にあやかって勲や功という字の「いさお」という名前も多く、中には「勝利(かつとし)」という文字通りの名前もある時代です。
 生まれは中国山西省楡次県楡次城内ということです。幼い頃には言語に絶する引き揚げの苦労話を両親に聞かされて育ちました。「無蓋車」で風雨にさらされながらの引き揚げがどんなにひどいものだったか想像にあまりあります。鮮烈な記憶があるのは、今は谷町筋になってしまった「拾願寺」の納屋の二階に仮住まいしていた3歳頃からです。薄暗い本堂には上から下まで帰るところの定まらない「白木の箱(骨箱)」がびっしりと積み上げられていました。薄暗い本堂の異様な光景は今も眼中から離れません。
 街には戦争で手や足をなくした「傷痍軍人(負傷兵)」があふれ、街角や時には電車の中でさえ首から募金箱を吊るして物乞いをしていました。ジープに乗った米兵が車上からキャンデーを振りまき、競い合って拾い集めた記憶もあります。その情けない姿を思い出し、顔から火が吹くほど恥ずかしく思ったのは、世の中が「落ち着き始めた」と言われる中学生になってからのことです。同じような体験を持った人がいることはずっと後になって知りました。「栄養失調」で病気になる子どもも多く、配給があると「なんば粉(トウモロコシの粉)の配給三日分です」と嬉々として近所に触れ回った記憶もあります。「バス住宅」と言って廃車になったバスを「市営住宅」に活用している時代でもありました。
 叔父は戦後数年して単身シベリアから帰国しましたが妻子とは生き別れ、生死不明のまま「戦時戸籍抹消」で再婚したところ、ずっと後になって生きていたことが分かりました。中国で暮らしていた従兄弟は文化大革命後帰国しましたが、口に言えない悲惨な体験をしています。私も両親のどちらかが不在の引き揚げであれば確実に「残留孤児」となっていたに違いありません。
 こうした幼時の体験を振り返ると、「戦後焼け跡闇市世代」ならぬ「戦後どさくさ幼少世代」の私たちにも戦争の悲惨さは刻印され、記憶から去り難いことが分かります。戦争を知らず(自覚せず)、敗戦のことも分からない幼少期を過ごした者の記録はもっと掘り起こされても良いのではないかと思う昨今です。
母の遺骨を納骨しました_b0142158_2243126.jpg

添付の写真は、生後100日のもので、引き揚げ時、母がポケットに入れて持ち帰ったためシワだらけですが、当時の写真はこれ一枚しか残っていない「貴重なもの」です。