とんでもない事件がおこった!

 秋葉原で7人を殺害し、10人を負傷させる通り魔事件がおこった。
 むごたらしい事件である。亡くなられた方々を心から悔やみ、負傷された方をお見舞い申しあげたい。その場に居合わせた方々やご遺族にもにも大きな衝撃をあたえたことだろう。PTSDが懸念される。

 おこった事実は新聞やテレビ、ラジオの報道で理解できる。しかし、それだけでは軽々に論評しがたい事件だろう。
 だが、ボクがまず直感したのはアメリカのような銃社会であれば、乱射事件間違いなしではなかったか…?という感想である。

 時系列でメールが発信されているという。かなり計画的なのである。

 http://www2.asahi.com/special2/080609/TKY200806090082.html

 「誰でも良かった」という言葉がまたしても繰り返されている。誰でも良かった…とは、全く無責任きわまりない、残虐な行為ではないか。殺害にいたる動機も、批判・攻撃すべき対象も特定されていない。単純すぎる情緒である。
 これから、具体的な情報を集めていろいろな角度から刑法学者や心理学者・教育者などが解析してくれるのだろう。それを待ちたい…。

 ただ、ボクなりに感ずるところがあるので、ふれてみたい。
 事件を起こした青年が精神衛生上の障害・病気を持っていたとは今のところ思えない。だとすれば、この事件にいたる青年の内面には動機があるはずだと思う。怒りや憤りの感情があり、その鬱憤をはらすために行動したのではないか。「誰でも良かった」というのはその怒りや憤りの矛先をどこに向けるべきか、「特定できなかった」ということだろう。「世の中全部に怒り、憤っている」と言うのと同じことだ。
 それは、主体的には「自分の感情がどこからくるのか解らない」という自己同一化の遅れと言えるかも知れない。また、世相や世の中の仕組みがわからず、社会のどこにいて、どこへ行けば良いのか認識できないという幼さ、無知かも知れない。
 この青年は自らすくすくと自己を育むことができなかった。彼には世の中・社会のシステムが大きすぎて、そのシステムを受け入れたり、変革したりするために働きかける余地はなかった。つまり、閉塞感に充ち満ちていたとは言えるだろう。

 だが、どんなに苦しい環境の中でも、自分を信じ、明日を信じて生き抜こうと懸命に努力している青年たちがいることを忘れてはいけない。夜のとばりは重く、暗くても、必ず煌々と陽がのぼることを信じて、苦闘を続けている青年たちがいることを…。

 罪を犯したこの青年は裁きを受けなければならない。更正の道を開けるかどうかは、この青年自身の努力次第であろう。
 しかし、犯人を裁けば一件落着とは言い難い。このような犯罪を生み出す世の中、社会の現実もまた、裁かれねばなるまい。
 この種の事件の多発ぶり!を見るにつけ、人が人として育ちぬける健全な教育環境の回復、人が人として交わることのできる世の中への前進・改革こそが、再発防止の決め手だと痛感するのである。

 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については … 最大の尊重を必要とする」という憲法の言葉は重い。
 「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」という教育基本法の言葉とともに…。                                                              
by itya-tyan | 2008-06-10 10:23 | 喜怒哀楽をともに… | Trackback | Comments(1)
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Commented by at 2008-11-09 23:22 x
 この事件、6月だったんだなぁ…もっと前のことだったような気がします。今となっては、ぜ~んぜんマスコミも報じない。それもどうかと思いますねぇ…次に出てくるのは、似たような事件が起こった時かなぁ…「以前も似たような事件があった!」みたいな話で…。そんな報道がされるようなことがないように、二度とこんな事件を起こさないですむように、そのためにも私は今のしごとをしているんだなって思います。