2010年 06月 08日 ( 1 )

 前回、追記に記した証秀上人は果たして何世か? 蓮如との関係は?という疑問に正確に答えられる結論を得たわけではありませんが、一応記すことができそうな資料が調ったので続きを書きます。

 興正寺御門跡十四世証秀上人
 証秀上人を興正寺十四世とする根拠となる文献は「富田林市史」に3点あげられています。
 先ず「興正寺御門跡兼帯所由緒書抜」という文書です。
 曰く「河内国石川郡冨田林の儀は、往古荒芝地にて御座候処、三〇五ヶ年以前永禄三庚申年、三好山城守様(康長)五機内御支配の時、山城国西本願寺宗興正寺御門跡一四世証秀上人、右芝地百貫文礼銭に差し上げ、御坊境内に申し請く」(冨田林市史第2巻P316、杉山家文書。写真添付あり)。
 次に「古記輯録」という佐藤家の文書です。
 「そもそも冨田林御堂開山上人は、人王百七代正親院御宇、興正寺十四主御門跡証秀上人なり」。
 さらに「河州石川郡冨田林御坊 御禁制書其外諸証拠書写」という文書に
 「…往古同郡の内中野村・新堂村・毛人谷村・山中田村と申す脇ニ荒芝地御座候処、毛人谷ニ当山御坊これ有ニ付、当山十四世証秀上人の時代、足利将軍家えあい願われ、料足百貫文差し上げ、右荒芝地を申し請けられ…」とあるそうです(同P318・杉山家文書・写真あり)。
 この3点の文書の成立時期は、「由緒抜書」が慶応元年(1865)頃、「古記輯録」が天保14年(1840)頃、「証拠書写」は「文化五年(1808)浄谷寺(現富田林町)との古格論争にさいし作成したものと考証されているが、由緒書自体はいつ成立したのかきめ手はない」が「他の二種の由緒書より早く成立したことは明らか」ということです。
 これらの文書からわかることは、少なくとも江戸時代末期、19世紀初頭から中葉にかけては明らかに証秀上人は14世とされており、これが定着していたということです。