2010年 06月 12日 ( 2 )

 明治に入ってから加えられた十三世上人 
 発見というのは大げさかも知れませんが…!
 十三世上人にまつわるこんな文章を発見したのです。

 光教上人は、歴代としては興正寺の第十三世とされています。
 光教上人を歴代の十三世とするといっても、興正寺が光教上人を歴代に加えたのは明治時代になってからのことです。それまでの興正寺では光教上人を歴代には入れていませんでした。一方で、興正寺と同じ系統である佛光寺では、江戸時代を通じ、光教上人を歴代に数えていました。興正寺でもそれに倣い、明治時代となって上人を歴代に加えました。
 興正寺と佛光寺の所伝が違うというのも不思議な話ですが、興正寺が光教上人を歴代としていなかったのは理由があってのことです。興正寺と佛光寺は、蓮教上人が興正寺を再興することにより分かれますが、この時、蓮教上人が興正寺を興したのに対し、光教上人はそのまま佛光寺にとどまります。その際に佛光寺に生じた混乱を収めたのも光教上人で、当時から佛光寺では光教上人を「中興開山」と呼んでいました(長性院蔵「絵系図」)。このため興正寺では、上人を歴代に加えることはありませんでした。

 この文章もインターネットで閲覧できます。真宗興正派・本山興正寺のホームページです。ホームページに掲載されているのですからいわば「正史」とみなしてもよいでしょう。 ここです。 左側の下の方に「興正寺史話」が50回にわたって連載されています。その中の第44話のくだりの一文です。
 その中で「光教上人を歴代に加えたのは明治時代になってから」「それまでの興正寺では光教上人を歴代には入れていませんでした」というのですから、「証秀上人は16世ではなかった」ということになります。
 しかし、証秀を14世とするにはもう一人誰かが上人の座から降りなければなりません。注目されるのは8世、9世の関係です。興正寺、仏光寺関係の文献などをみると、親鸞、真仏、源海、了海、誓海、明光、了源までの7代は同一です。しかし、「真宗法脈史」で8世とされる源鸞(了源の子)については「早世」とし、9世とされる「室了明尼(了源の妻)」を「八祖」つまり「8世」としているものもあるようです。了明尼が事実上の上人として興正寺・仏光寺の采配を振るっていたことは事実のようですから、源鸞が8世と扱われていなかった時代があるのかも知れません。
 
 
 前回は証秀上人を14世とする根拠を検討してみました。しかし、世には16世とする文書もたくさんあります。その根拠はどこに有るのでしょうか。

  興正寺第十六世證秀上人
 探してみると、興正寺の歴史や歴代上人のエピソードなどが掲載されている書籍があり、公開されている(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)ことがわかりました。「真宗法脈史」という本です。早速訪ねてみます。
 これによると「この図書は著作権法第67条による文化庁長官裁定を受けて公開」されたものであり、明治44年(1911)6月、真宗興正派の僧中島慈応という人の手によって刊行されたものだということが解ります。目次に従って、証秀の項を探してみましょう。
 
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 上記のように第五編第三章(p99)に証秀上人の項があります。証秀の証は正しくは「證」です。
 書き出しのところに
 「蓮秀上人の入寂によりて、此の後を稟けて、本寺第十六世の法燈を継承せられしは、其の長子證秀上人なり」とはっきり「第十六世」と書いてあります。
 また、第二章の蓮秀の項に「諱は経照、母は本願寺巧如上人の玄孫蓮如上人の孫、常勝寺蓮覚師の女なり」とありますから、証秀は蓮如の曾孫ということになります。

 筆者は宗教家でも宗教史家でもないので、証秀上人が14世なのか、16世なのか、その真偽を追求するつもりはなく、「証秀上人は14世とも、16世とも言われます」と説明するに留めておこうと思っています。
 ただ、興正寺の歴史については親鸞を祖とし、第7世了源が開基。順徳天皇から「興隆正法」の勅願を受け「興正寺」と称したこと。その後、後醍醐天皇の時代に「阿弥陀仏光寺」の勅号を受け、仏光寺と称した時代があること。時には「仏光寺」「前興正寺」の呼称が併存していたらしい時代もあること。さらに、蓮如に帰依した蓮教(経豪)が再び「興正寺」を再興したこと。所在も京都山科、洛中東山、大坂天満、洛中七条堀川など転々としていること、など一言では語り尽くせない長い歴史があることは心得ておきたいものです(なお、ウィキペディァには興正寺史の概略と「真宗法脈史」による歴代上人一覧を掲載したページもあります)。
 ただし、ここにあげた「真宗法脈史」は西本願寺の脇門跡であった興正寺が明治9年(1876)真宗興正派として独立した後に書かれたものであることに注意が必要だろうと思っています。なぜなら、明治以降に歴代上人についての寺伝に何らかの作為が加えられた可能性を無しとしないと考えるからです。本山の住職は華園家であり、冨田林の別院の住職も華園さんですから、尋ねればその間の事情がわかるのかも知れません。
 さて、この筆者のヤマ感が当たっていたな!と思う資料を見つけました。ここでは長くなるので一旦おいて、次回にアップすることにします。