カテゴリ:冨田林・寺内町、そして露子( 16 )

 5月27日、久しぶりに寺内町や杉山家住宅を案内する機会がありました。
b0142158_8484563.jpg

 杉山家住宅には、山岡鉄舟が滞在の折りに書き残したと伝えられる扁額があります。
 何と読むか、覚束ないので確認してみると関西史跡散策会・通称KSS会のブログに行き当たりました。
 それによれば
 扁額であるから 右から左へ
「生前ノ富貴ハ学ビテ頭露(あらわ)シ 身後風流ハ陌上ノ花ナリ」
=現世で富や身分が高くなりても 死後に至れば威風もやがては路上に捨てられた花のように儚いものである=蘇軾の詩の一節である。

 とあります。
 ボクも、これが蘇軾の詩をひいたものであることは気づいていました。原詩は<陌上花(はくじょうのはな)>という詩でしょう。しかし、合点がいかなかったのは原詩と違うところがあるからで、解釈の仕方にも少し物足りないところも感じます。
 どう見ても、原詩は以下の通りです。
  游九仙山,聞里中兒歌《陌上花》。父老云:吳越王妃每歲春必歸臨安,王以書遺妃曰:"陌上花開,可緩緩歸矣。"吳人用其語為歌,含思宛轉,聽之凄然,而其詞鄙野,為易之云。

  陌上花開蝴蝶飛,江山猶是昔人非。
  遺民幾度垂垂老,游女長歌緩緩歸。

  陌上山花無數開,路人爭看翠駢來。
  若為留得堂堂去,且更從教緩緩回。

  生前富貴草頭露,身后風流陌上花。
  已作遲遲君去魯,猶歌緩緩妾回家。


 該当の所だけを抜き出してみると
  生前富貴草頭露 身後風流陌上花
  生前の富貴は草頭の露、身後の風流は陌上の花

 となります。
  *草頭露 草葉の先の露。はかなく、長続きしないたとえ。
  *身後(しんご) 死んだ後。死後。没後。
  *陌上(はくじょう)《「陌」は道の意》路上。道のあたり。
              あぜ道のあたり。

 もう一度、鉄舟の扁額を見直し、右から左へ読んでみます。
b0142158_9274524.jpg

  花上陌流風後身露頭学貴富前生
 原詩も右から左へ並べ直してみます
  花上陌流風後身露頭草貴富前生
 鉄舟は頭露と書くべきところを、頭露と書き間違えたのでしょうか?まさか!鉄舟ともあろう人が、揮毫するにあたって間違うはずがありません。素朴ながら、長い間解りかねていました。

 そして、この度ようやく気づいたことがあります。
 この改作は鉄舟の風流であり、世辞(お世辞ではありません)だったのだということです。
 鉄舟が杉山家にしばらくの間、逗留したはずです。その間に杉山家当主の博識、勉強ぶりを目にしたことでしょう。杉山家には少なからぬ蔵書があり、当主はおろか一族が通じていると実感したのではないでしょうか。
 その蔵書については、ボクのブログでも紹介したことがあります。
 富田林・杉山家の蔵書(クリック)
 揮毫にあたって、逗留させてもらい、世話になっている当主に「あなたの富貴は草頭の露だ」というワケにもいかないでしょう。そこで鉄舟は「学んで頭角をあらわしています」と世辞を述べたのです。敬意を表すとともに鉄舟の茶目っ気でもあったのでしょう。
 ですから、このくだり
 生前富貴学頭露 身後風流陌上花
 生前の富貴は学びて頭を露わし、身後の風流は陌上の花なりと読み下し
 存命中の富貴は良く学んで頭角をあらわすことだが、没後は路傍の花と覚悟するところに風流があると解するのが適切ではないか、と考えるにいたりました。
 単なる、蘇軾の詩の模倣、改作ではなかったのです。
 なお、関西史跡散策会・通称KSS会のブログはここです(クリック)。
b0142158_17323864.jpg

 少し使う所があって、寺内町・城の門筋の写真を撮ってきました。
 プリントがモノクロなので全部モノクロに変換しました。
 その他の手は加えていません。
 
 城の門筋は建設省(当時)の「日本の道百選」に選ばれています。
b0142158_17363350.jpg

 大阪では、御堂筋、フェニックス通り(堺市)とここだけでした。
b0142158_17464772.jpg

 3つの中では、この城の門筋が一番風情があると思っているのですが…
b0142158_17391943.jpg

 いかがなものでしょうか。一度はお越しください。
b0142158_213236100.jpg
  *画像はクリックで拡大できます。適当なサイズに直してご覧ください*
気になりながらアップが遅れてしまいました。
寺内町の家々が思い思いに、雛飾りを見せてくれます。
普段は覗けない各戸の風情を見せてもらえるのも楽しみです。
この日はかなりの人出で賑わしい日になります。
お越しになりませんか。
フェイスブックにボクの知人、武田憲久氏のこんなカキコがアップされていました。
b0142158_20345486.jpg

「一ヶ月後の9月25日より初めての写真展 父の書庫より 武田 憲久 を開催することになりました
会場は大阪府内で唯一の重要伝統的建造物群保存地区 富田林寺内町にある寺内町センターにて(旧杉山邸前)です
ここ数年テーマにしていた 亡くなった父の書庫から出てきた 織田作之助の本や父の日記、原稿からはじまった
いたって個人的なものです。
7月末の入院以来準備らしい準備が出来ず未だ入院中という有様
まだどういう状態で展示できるのか、準備不足否めませんがなんとかたどり着きたいと思っています。
富田林という大阪市内からですと少し不便な場所での開催となりましたが
秋の行楽の一日で富田林寺内町とあわせて訪れていただければと思っています。ー 場所: 富田林寺内町センター」

見覚えのある写真です。
このモデルさんの写真を撮る、ということで、この日ボクが少しお供をしたのです。
なるほどなぁ…!というプロらしい撮り方でした。
知らぬ間にボクの写真も撮ってくれて、パネルを頂きました。大事にしています。
オダサクのお姉さんが富田林に居られて、そこにしばらく寄寓してかの「土曜夫人」を執筆したのです。
旧杉山家の住宅の蔵の一角には、僅かですが遺品少々も展示されています。
武田氏の初めての写真展がここで…、というのは嬉しい限りです。
取り結んでくれたのは、オダサク倶楽部主宰の井村さんでした。今年は生誕100年ということで、ことに忙しく活躍されています。
昨日、とても暑い日だったが東大阪市・日下の河澄家を始め、石切界隈を探索してきました。
旧生駒トンネル跡や日下新池、称揚寺・招魂碑(生駒トンネル西口工事犠牲者の碑、4名の朝鮮人の名も…)、古代ハスの蓮池、日下貝塚、谷崎潤一郎ゆかりの燈籠と蹲(つくばい)など、旧枚岡特有の坂の多い道を上り下りしながら散策しました。
ボクにとっては一度は訪ねてみたかったのが旧河澄家住宅でした。
東大阪市が寄付を受け、大がかりな解体修理の後、市指定文化財として無料で一般公開しているものです。
ここは石上露子(杉山孝)が13歳の時、生別した母奈美の実家です。棲鶴楼とよばれる一室で富田林・寺内町・石上露子とその母のこと、少しレポートさせてもらいました。話したいことは多々ありましたがかなり端折りました。
このブログを読んでいただいている皆さんにはダブる部分もありますが、当日のレジメをアップしておきます。
     *クリックで拡大、読みやすい大きさに調整してお読みください。
b0142158_9471041.jpg

b0142158_947522.jpg

5月の3日から富田林・寺内町で「ちりめん細工展」(クリック)がおこなわれます。
頼まれて3日、10日、12日、13日と連続して寺内町を案内することになっているので、恰好の催しだと思うのですが、どの程度の人出になるのか気がかりです。
あんまり人出が多いと、食事の段取りも含めて、案内しにくくなりますからねぇ…。
天候も…。
少々の雨なら風情もありますが、土砂降りだと歩きにくくなるでしょう。

* チラシはクリックで拡大できます。見やすい大きさにしてご覧ください。
b0142158_165673.jpg

   ▲ クリックで拡大できます。適当なサイズになおしてお読みください。

 露子の詩「小板橋」はこちらでお読みください。(クリック)
 筆を折る。恋しい人との別離を覚悟する。
 ボクは二重の意味での絶唱だと受けとめています。
6月28日、かなり暑い日でしたが寝屋川から妙齢のご婦人7人!
寺内町を案内しました。
今日、仕事から帰ると、和子さんから丁寧なお礼状が…!
俳句が2句添えてあります。
これは放っとくわけにはいきませんねぇ…!
で、こんな風にしてみました。

 *「駒つなぎ」は荷を運んで来た牛や馬をつないでおく所
 *「忍び返し」は泥棒よけの仕掛け
b0142158_7515258.jpg

☆ 和子さん、ご丁寧にありがとうございます。
 また、機会がありましたらご一緒しましょう!
 
 今月は、富田林・寺内町、旧杉山家住宅のガイドが2件入っているのでガイド用メモを更新した。現物はA4横2ページ・縦書きだが、jpgにすると小さすぎて読めないのでコピーした。数字が漢数字のままなのをお許し願いたい。少し長めなので2回にわけてアップする。

一 重伝建指定地区「富田林・寺内町」の概況・沿革
●一五五八年(永禄元年) 親鸞を始祖とする浄土真宗興正寺第一四世証秀上人、銭一〇〇貫文にて富田の芝を申請け
●戦国時代(一四六七〜一五六二)に各地に成立した宗教自治都市の一つ。浄土真宗・真宗(一向宗)など  *一揆とは
●急峻な河岸段丘に立地。城塞的要素をもった農村集落から、次第に自由商人の街へ展開 八人衆
(四村・各二人) *租税対策
「いにしへは富田芝とて、広き野にありしが、公命によりて市店建続きて、商人多し、殊には、水勝
れて善ければ、酒造る業の家多数軒を並ぶ(河内名所図絵)」
●興正寺 蓮如に帰依した蓮教が山科に再興。長く本願寺脇門跡。明治九年(一八七六)真宗興正(寺)派を形成 富田林・別院
●八六年八月一〇日「道の日」制定を記念し、「日本の道百選」の一つに選定。全国一〇四件うち府内三件。
●九七年一〇月三一日「重要伝統的建造物群保存地区」指定。全国で八七地区、府内唯一。域内五〇七件中一八一件が特定。
 富田林は「寺内町、在郷町」と分類されている。分類には、城下町・宿場町・門前町・寺内町・港町・農村・漁村などあり。
● 石川西側の河岸段丘上に室町時代末に開かれた興正寺別院を中心とする寺内町。現在もほぼ寺内
町の町割りをとどめ,街路に沿って江戸時代以降のつし二階,本瓦葺,平入の大規模な町家が軒を連ね,全体として重厚な歴史的景観を伝えている。 *厨子
● 〇七年三月二二日「美しい日本の歴史的風土百選(特別枠を除く)」に選定。全国一〇一地域、一一七都市。府内三都市の一。
● 街割・区割り、あて曲げの道、背割り水路・用水などのインフラ。
  妍を競いつつ実用的で質実剛健。資産防御。現に人が暮らす。

b0142158_14185967.jpg 
━━ を「町」と呼び、上(北)から壱里山町、富山町、北会所町、南会所町、堺筋(町)、御坊町、以南右を東林町、左を西林町
……を「筋」と呼び、左(西)から本町筋、富筋、城の門筋、亀が坂筋、東筋

一 重文「旧杉山家住宅」の概況
●杉山家 寺内町創建以来約四〇〇年続いたと言われる旧家。幕末の豪商・文人。 *「江戸の本屋さん」p41〜42
大地主、南河内郡二位、大阪府一二位 全国二四九位(明治三一年頃)
● 富田林市が八三年六月一億六千六百万円で買取り、工費二億三千万円、工期二年半をかけて解体
修理。文化庁・技官が監修。
● 八三年一二月二六日重要文化財指定。大阪府内九八件の一。 
● 杉山家は寺内町富田林の創設にかかわった旧家の一つであり、江戸時代中期以降は造り酒屋とし
て栄えた家柄である。富田林寺内町の古い町家は農家に類似した平面構成をもつことを一つの特色としているが、旧杉山家住宅はその中でも最も古い遺構であり、さらに江戸時代中期の拡張によって大規模商家に整い、座敷部も美麗で、質的にもすぐれた町家建築として貴重である。 
一 石上露子のこと
● 本名杉山タカ 杉山家最後の当主(一八八二〜一九五九・M一五〜S三四) 〇三年新詩社(明星)入社
 杉山家の跡取り娘として生まれる。与謝野鉄幹の『明星』に短歌や詩、掌編小説や随想を執筆。相愛の人との恋を諦め婿をとり、家業を継ぐ。作品には、閉塞された時代への悲痛な思いが投影している。
● 「きのふにつゞいて今日はまた某村の年貢取、納米日、数人の手代と下男はそこの支配人の宅へ。やがて続々とはこばれてくる米俵の山のクルマ、五台、十台、夜に入ってもまだつゞく。運賃の支払、再度の品質検査、提燈の火が右往左往する。華やかな光景、かうしたかげにものでよんだ様な悲惨な事柄がおきてゐなければいいが。/星氷る夜空に私は祈りたいやうな」(自伝・落葉の国)
● 〇四年(M三十七年)七月一日、ゆふちどり(露子・二三歳)の名で「明星(辰年第七号)」に五首掲載
。
  
 みいくさにこよひ誰(た)が死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる

 平出露花(修)が、「最近の短歌」で「辰歳第七号『あこがれ』の夕ちどり君の作、何れも完璧。戦争を謡うて斯の如く真摯に斯の如く悽愴なるもの他に其代を見ざる処、我はほこりかに世に示して文学の本質なるものを説明して見たい」と、絶賛。
● 深窓の令嬢・麗人ながら進取の気風に富む 婦女新聞、平民新聞購読 大阪平民社や社会主義者へのカンパなど
 「一たいいま慈善というものは、どうしたところから出来て参ったものだとお思い遊ばします。薄幸な工女や工夫や、さてはいぢらしい貧民の子弟等が見る目も苦しき労働より生じた幾多の血しほの、黄金と化し再びをまた、彼等が上に帰りゆくのに外ならない。取ったものをここに返す、何のそれが誇るに足るべき事で御座いませう、慈善事業の気高さのなんのと、何がさまでに賞賛に価ひいたしましょうぞ。それも最、取ったすべてを立派に彼らに返すとならば当然ゆくべき正しい道の名にもかなひませうがそうでは無い」(「あきらめ主義」婦人世界六八号・〇七年一月・匿名)
● 〇七年(M四〇年)一二月一七日長田正平との想いをあきらめ、片山壮平(のち長三郎)を婿養子に迎える。露子二六歳。
 結婚前夜の歌に

 黒髪に夢のからなるわれ掩ひ柩のくるま人の送る日 
 わが涙玉とし貫きて喪にかざりさかしき道へ咀われて行く


● 二重の意味での絶唱「小板橋」(同年一二月「明星」・署名・ゆふちどり)

   ゆきずりのわが小板橋 しらしらとひと枝のうばら 
   いづこより流れか寄りし。
   君まつと踏みし夕に いひしらずしみて匂いき。

   今はとて思ひて痛みて 君が名も夢も捨てむと
   なげきつつ夕わたれば、
   あゝうばら、あともとどめず、 小板橋ひとりゆらめく


 「一生に一冊の詩集を出し、春月が露子の詩一篇を拾いあげたように、誰かがのちに何かの詞華集に採ってくれるのを待つ心境に在った」(伊藤整。『若き日の肖像』)
● 〇八年(M四一年)筆を折る(夫の強要とも)。五月新詩社「社中消息」に退社の報道。一〇年長男(善郎)、一一年長女(禮)、一五年次男(好彦)出生。一七年人工流産。三一年作歌活動再開・「冬柏」。この間、京都、大阪・浜寺に在す。四一年長男没。四五年四月一四日夫没。四六年富田林に還る。五六年次男浜寺の家で没(自殺)。五九年脳出血で急逝、享年七八歳。

☆ こぼれ話 ☆  
● 露子は、保守的になりがちな旧家の跡取り娘でありながら、晩年は日本共産党の理解者となり、1956 年の春に日本共産党河南地区委員会に、家の納屋の一部を無償で開放し、青年達がここでマルクス主義を学習したり、労働歌を歌っていたという。
              *納屋 : 正確には「板持蔵」という蔵
● 露子亡き後、荒れるままだった杉山家の建物を解体修理し、街並み保存の中心的存在としてよみがえらせる先頭にたったのが日本共産党市議団でした。
          (石月静恵・「女性の広場」・98年8月号)