カテゴリ:西行絵巻ー物好きの深読み( 28 )

 このところ多忙のせいもあって、ブログにカキコができなかった。
 久しぶりに書ける時間ができた…と思って開いてみて驚いた。
 新しいカキコをしていなかったのに、昨日、5月16日のアクセスが何と434件にのぼっている!
 1日のアクセス数としては、多分最高だ!
 何が読まれたのだろう?
 記録を見て、また驚いた。これまでとは全く違う様相だ。
 1位から10位まで、ずらりと「西行絵巻 ー 物好きの深読み」が並んでいる。
 それぞれに相当な量のアクセスを頂いたようだ。
 どこかの、どなたかがシリーズを通して読んでくださったようだ。
 一人ではなく、複数の人(グループ?)かもしれない。
 興味をもって頂くのは嬉しいが、素人の深読みなので、ご容赦いただかないといけないかも知れない。
 恐縮の限りではあるが、アクセス頂いたこと自体は、正直なところ嬉しい!
目下多忙!
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ながら…、頼まれごともあり、石川の桜を撮りに…!

重苦しい1ヶ月だった!
さらに重苦しい数年へと続くのだろう!
胆を決めて暮らしていこう…!

 ☆ 石川の畔にて、遠景は二上山
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 「石川河川公園にある西行絵巻の歌はどなたが選ばれたのですか? 陶板の作者はどなたですか?」などと時折尋ねられる。もとより「物好き」も気にかかっていたのだが、調べていなかった。多分、その道の人たちが携わっておられたのだろう、と推測していた。
 公園管理事務所に問い合わせると「土木事務所の公園緑地課に聞いてください」ということになったので、今朝電話をしてみた。電話を受けてくれた女性の職員が夕方までかかって調べてくれたようだ。
先ほど返事を頂いた。応対には感謝だ!内容としては、少しもの足りない部分もあるが、念のためにその主旨を記しておきたい。
 1、選者は特にいない。事務所がコンサルに発注し、事務所とコンサルの間で「四季折々の歌」、「比較的よく知られていると思われる歌」を中心に選んだ。
 2.陶板は「大塚オーミ陶業」という会社に発注した(比較的よく知られている会社です)。
 3.絵柄は各種伝承されているので、いろいろ参照、参考にして作成した。特定の本・原画からの模写・引用ではない。
 4.完成が平成7年(1995年)と古く、お見せできる確実な資料が残っていない。
ということだった。これ以上のことが解る機会はもうなさそうだ。
 宣伝するわけではないが、大塚オーミ陶業については、このようなブログを見つけたので紹介しておこう。
 同社は、今や押しも押されもしない陶板大手となっている。近年は次々と大作を手がけていて、HPには実績紹介も多々ある。だが、この「西行絵巻」はない。HPに掲載するほどの作品ではない、ということなのだろう。

☆ なお、今日は「けん家持」さんという愉しい、凝り性らしい方を見つけて、ブログにコメントしたところ早速レス・コメントをいただいた。彼のブログは次ページのコメント欄から「けん家持」さんをクリックすると開けるので、ご覧あれ!
結びにかえてー安堵の心境と感謝の念

 ようやくこのシリーズを終えることができる。安堵の心境だ。「序」にも書いたとおり、高校時代にホンの少し「古典」を習ったくらいで、久しく「古文」などとは接したこともない、全くの「門外漢」であり、格別の西行ファンでもない。だから苦労した。「甘く見過ぎたか」と後悔したこともある。だが、途中で投げ出すわけにもいかなかった。間違ったことを書いたかも知れない。その道の方々からのご批判は甘んじて受けなければならないとも思う。
 このシリーズを企てた動機は単純だった。石川河川公園ができた由来を大切にしたい。市政や府政の革新を志した市井の民の願いが実現していることを記念したいという思いがあった。しかも、ここには「西行絵巻」が施されている。せめて、この十八首だけは読みこんでおきたいとも思った。
 春から始めて夏には終わるだろうと高をくくっていた。ところが、もう秋だ。あちこちからだんじり囃子の聞こえる季節ではないか。相当に手こずったという証だろう。
 西行についていえば、いつの頃からか、花鳥風月に詠み耽る漂泊の人と解するだけでいいのか、と思うようになった。秘かに「斜め読み」「深読み」を試みていた。「外道」とは思いつつも、その人生、生きた時代を探っていると、あながち「外道」とばかりはいえないような気がするようになった。西行を人生、時代に重ねて読むのも一つの試みではないか。高じてこの「深読み」となったのだ。
 とは言え、まだまだ解らぬことが多い。他日、単発で触れることがあるかも知れない。ともあれ、ひとまずの締めくくりとしよう。
 この間、数人の方がこのブログに目を通してくださった。プリントを大切にしてくださっている方もある。感謝にたえない。
 なお、このブログは学術文書ではないので、辞書・辞典以外はいちいち出典をあげることはしていない。が、驚くほど大勢の方が西行を研究され、書物やブログなどに書かれている。小生が蒐集した文献も夥しい。参考にさせていただいた学者、研究者、評論家、作家、好事家のみなさんに感謝申しあげる。                                
                        物好き・敬白
西行絵巻 終章

たはぶれ歌 老境そして童心

 山家集・聞書集に「たはぶれ歌」13首がある。老境に差しかかった西行のどことなくひなびた味わい、それでいてなお衰えぬ童心を感じさせる歌群だと思う。良寛や一休にも通ずるようだ。お口直しに「たはぶれ歌」を味わって、西行絵巻の結びとしよう。

 詞書 「嵯峨に棲みけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを

 うなゐ子がすさみにならす麥笛のこゑにおどろく夏のひるぶし
 「幼い子が手すさびに鳴らす麦笛の音色にはっとして目覚める夏の昼寝だよ」「うなゐ」はおかっぱ頭のこと。「すさみ」は「すさび」に同じ。この場合は「遊み・遊び」。「ひるぶし」は「ひるふし」が一般的。「昼臥し」と書く。

 むかしかな炒粉かけとかせしことよあこめの袖にたまだすきして
 「もう昔のことだなぁ、炒り粉かけとかしたこたがあったよ、あこめの袖に玉襷をかけて」「炒粉」は米を炒って粉にしたもの。「炒粉かけ」は砂糖などをまぶしたものか。「あこめ」は「示」編に「日」または「白」と書くのだが、パソコンでは出ない。「広辞苑」によれば「アイコメ(間籠)の意、公家の男女の装束の内着」とあり、「アコメすがた」に「上着を着ずアコメだけを着た姿」とある。「玉襷」の「たま」は古語辞典に「接頭語で美称」とあり「玉襷」は「たすきの美称」とある。

 竹馬を杖にも今日はたのむかなわらは遊びをおもひいでつつ
 「遊び道具だった竹馬を今では杖として頼る身になってしまったよ。子どもの頃に竹馬で遊んだことが思い出されるなぁ」「わらは」は「童」、「元服前、十歳前後の子ども」。

 昔せしかくれ遊びになりなばやかたすみもとによりふせりつつ
 「昔した隠れんぼうをしてみたいものだなぁ。今も子供たちはあちこちの片隅に寄り臥せって隠れているよ」「なりなばや」は解しにくい用法だ。「なる」「ぬ」「ばや」のことか。「なる」には「することができる、可能である、かなう」などの意がある。「ぬ」には「必ず…、確かに…、…てしまう」など完了のニュアンスがあり「確述(強意)」だという。「ばや」は終助詞で、ここでは「希望。…たいものだ」と読める。しつこく訳せば「昔よく隠れんぼうをしたものだ。その隠れんぼうを子どもの頃に還ってしてみたいものだ」となり、「かたすみもとによりふせりつつ」は、今、子供たちが隠れんぼうをしている姿とともに、西行自身が部屋の片隅にじっと臥せる姿が重なり、子どもの頃に隠れんぼうをしていた昔の姿と重なる。深い郷愁を漂わせる表現だ。

 折角なので、「たはぶれ歌」の残り九首も紹介しておこう。

 篠ためて雀弓はる男のわらはひたひ烏帽子のほしげなるかな
 我もさぞ庭のいさごの土遊びさて生ひたてる身にこそありけれ
 高尾寺あはれなりけるつとめかなやすらい花とつづみうつなり
 いたきかな菖蒲かぶりの茅卷馬はうなゐわらはのしわざと覺えて
 入相のおとのみならず山でらはふみよむ聲もあはれなりけり
 戀しきをたはぶれられしそのかみのいはけなかりし折のこころは
 石なごのたまの落ちくるほどなさに過ぐる月日はかはりやはする
 いまゆらも小網にかかれるいささめのいさ又しらず戀ざめのよや
 ぬなははふ池にしづめるたて石のたてたることもなきみぎはかな


              西行絵巻ー物好きの深読み <完>



 
西行 異譚 ④

西行 もう一つの貌(かお)

 漂泊の歌人、清澄な自然詠の達人、述懐歌に秀る。西行はその道の人として著名ではある。が、西行の言行にまつわるエピソードにも事欠かない。西行の幾つかの奇譚・伝承にふれてこのシリーズを閉じることにしよう。

「反魂の秘術」を操る
 西行には際物めいた話も多い。ここでとりあげるのもその一つ。撰集抄(せんじゅうしょう)である。西行が「反魂(はんごん)の秘術」を用いたという話だ。
 撰集抄は、西行に仮託された作者不詳の説話集。跋文に寿永二年(1183)讃岐国善通寺において作られたとあるが成立年次には諸説があり、13世紀中葉、建長二年(1250)頃か、少なくとも弘安十年(1287)頃までに成立したようだ。あたかも西行が語り手として自らの諸国行脚の途中見聞を記したかのような体裁をとり、西行が第一人称で名乗り出る場面もある。
 広辞苑によれば「反魂」とは「死んだ人の魂を呼びかえすこと。蘇生させること」とある。西行が死人を蘇らせた。または「人を造った」というのである。略記してみる。
 「広野に出て、人の見ていないところで死人の骨を集め、頭から手足の順を間違えずに並べ、ひさう(砒霜、砒素のこと)という薬を塗り、… 、二七日置いて『反魂の秘術』を行った」。できあがったのは「人の姿には似ていたが、色も悪く、心を持っていなかった。声は出るが、出るだけで吹き損ないの笛のようだ」。本当の人間に蘇生することも、創作することもできなかったのだ。「さて、これをどうするか。壊せば『殺業(せつごう)』になってしまう。心が無いのだから、ただ草木と同じだけれど、思えば人の姿をしているし、壊すわけにもいかないので、高野山の奥の人も通わぬ所においた」
 これには後日談もあるが略す。

出家してなお煩悩の人
 遊女と西行の出会いといえば唐突な感じもするが、西行が生きた時代の遊女と呼ばれる人々にはかなりのレベルの文化人もいたようだ。こんな顛末が残る。
 「天王寺へまゐりけるに、雨の降りければ、江口と申す所に宿を借りけるに、貸さざりければ」つまり、天王寺へ参って雨が降ってきたので江口という所で泊まろうとしたが泊めてくれない。そこで
 世の中を厭ふまでこそかたからめ仮のやどりををしむ君かな
と詠んだところ、遊女が「返し」に詠む。
 いへを出づる人とし聞かば仮の宿心とむなと思ふばかりぞ
 西行「あなたが世を厭い、捨てるのは難しいことでしょうが、たった一夜の宿を恵むことさえ惜しむのですか」。遊女答えて「聞けばあなたは世を捨て、出家された方だそうですね。ならば、こんな仮の宿に心をとめることなどなさいませんように。私はそう思っただけですよ」。出家の厳しさ、覚悟を再認識させられたというのだろうか。
 聞書集・地獄ゑを見てには、もっとリアルな歌も並ぶ。
 見るも憂しいかにかすべき我が心かかるむくゐのつみやありけりる
 詞書きに「くろきほむらのなかに、をとこ女(をみな)みなもえけるところを」とある歌は
 なべてなきくろきほむらの苦しみは夜の思ひのむくいなるべし
 くわえて、こうも詠む。
 あはれみし乳房のこともわすれけり我がかなしみの苦のみおぼえて
 この苦しみをこえて「悟る」というのか、「心をおこす縁たらば阿鼻のほむらの中にてもと申すことを思ひいでて」と記し、詠む。
 ひまもなきほむらのなかのくるしみも心おこせば悟りにぞなる
 この際、注釈は略すので、独自に吟味、鑑賞をお願いする。

庶民、子どもの知恵にひるむ
 西行の人懐っこさ、庶民性を物語る逸話は各地に残る。いずれも「無学」と思える庶民や子どもに切り返されて、すごすごと退散するという筋立てだ。その幾つかを拾ってみよう。
 先ず、熱田神宮。夏の日に熱田の宮に来て、一休みするうちに寝入ってしまった西行。涼しい風に目を覚まし、「かくばかり木陰涼しき宮立ちを誰が熱たと名づけ初めけむ」と詠む。と、声あり。「なよ法師東の方へ行きながらなど西行と名告り初めけむ」西行、退散。これは名古屋甚句にも歌われ、「こんなに赤い花を誰が葵と名を付けた」といった調子で延々と続くとか。
 次に、七瀬川。西行が七瀬川を渡っていると、馬子が馬を引いて渡っている。西行がからかう。「ななせがわとは言うけれど 馬子が馬引きやせわたる(八瀬・痩せ)」馬子が返す。「ななせがわとは言うけれど 遍路がこがしでむせわたる(六瀬・咽せ)」西行は「こがし(焦がし・大麦、小麦などを炒った粉菓子)」をもらって食べていて、咽せたのである。西行、退散。
 さらに、戸隠・飯綱原(飯綱高原)。西行が戸隠をめざして飯綱原を歩いていると、子供たちがワラビをとっていた。西行、からかう。「わらびにて手な焼きそ(ワラビ・藁火)」「藁の火で手を焼くなよ」。西行は檜の笠を被っていた。子ども、負けずにやり返す。「ひのきにて頭な焼きそ(ヒノキ・火の気)」「坊さんこそ檜で頭を焼くなよ」というわけだ。西行、退散。
 最後に、歌とめ川、西行もどり松など。この話は全国のあちこちに伝承され、西行が訪れていないはずの所にもある。登場人物も乙女や子どもであったり、時にお百姓であったりする。
 話は、鎌を手にした乙女や子ども、お百姓に「どこへ行くのか」と問うと、それぞれが「冬ほきて夏には枯るる草刈りに」と答えたという。西行には歌の上の句らしいが、冬に実って夏に枯れる草が不思議で、何という草かわからない。よくよく考えると麦のことだった。西行は「かかる山里にして、この風流あり。わが修行いまだいたらず」と退散した、という話だ。川の前で引き返すと「歌とめ川」となり、松の前で引き返すと「戻り松」というわけで、尾瀬や湘南、秩父などにこの伝承があるという。

 ところで、いかに物好きとはいえ、この「冬ほきて」という言葉には参った。初めは「冬穂来て」かと考えた。これなら分かりやすい。ところが、ある人が「冬萌きて」と書き、「夏萌きて、冬枯れる草はたくさんありますが、冬萌きて夏枯れるくさは、さすがの西行さんにもわかりませんでした」と解説しているではないか。
 「萌きて」を「ほきて」と読む読み方がどうしても分からない。間違いではないのか。あれこれ辞書をくりながら「漢字源」(学研)まで辿ってゆくと「萌芽」に続いて「萌起」という言葉が出てきた。「ボウキ・ホウキ」と読むらしい。「草木が芽を出す」とある。「ホウキて」が「ホキて」となったものか。「て」は「単純接続 …て、そして」のことだろう。「萌起て」は「草木が芽を出し・て」ということになる。
 それとも「萌」一字で「ホウ」と読むのを「ホ」と読んでいるのか。「萌」は「芽が出ること、きざすこと、もえること」(広辞苑)である。しかし「萌く」つまり「ホウく」という言葉はないから、「ほう・き・て」と分けて読まざるを得ない。「全訳古語辞典」(旺文社)を拾ってみる。「き」は助動詞の特殊型で「完了・存続 …ている、…てある」の意。「て」は「接助詞、確定条件、逆説 …のに、…ても」と考えられる。「萌・き・て」は「芽をだし・て・いても(いるのに)」となる。「逆説」の用法だと「冬萌きて夏枯るる」とか「夏萌きて冬枯るる」など、一連の言葉が連なっていなければならないことになる。
 たどり着くのは難しかったが、なんとか「解」に近づけたのではないかと思うのだが、どんなものか。
西行絵巻 異譚 ③

謡曲・松山天狗 雨月物語・白峯            西行、崇徳の怨霊を鎮める

 謡曲「松山天狗」も「雨月物語 白峯」も西行が讃岐・白峯の崇徳の陵を参ったときに詠んだとされる歌によせて脚色している。
 それは
 松山の浪の景色は変わらじをかたなく君はなりましにけり
 よしや君むかしの玉の床とてもかからん後はいかにかはせむ

 などの歌である。

 謡曲「松山天狗」によれば、西行が案内を乞うた「新院(崇徳)」の御廟はとてつもなく荒れ果てていた。西行が案内の老翁に問う。「ご存命中に誰かお慰めに来てくれたか」。老翁答えて「院はお恨みのことが多く、白峯の相模坊に従う天狗どもがお仕えするほかは、伺候するものもいない」。
 西行は詠む。
 よしや君むかしの玉の床とてもかからん後はいかにかはせむ
 「たとえ君が昔は玉座にお座りになっていたにせよ、こうなってしまったらどうして差し上げれば良いのだろう。いや、どのようにもして差し上げられない。(本当に無念でたまらない)」ということだろう。この歌は西行、畢生(ひっせい)の鎮魂歌だといわれる。
 と、「いかに西行、ここまではるばる来てくれたか。返す返すも嬉しいぞ」と声がする。御廟が鳴動して崇徳が姿を現す。二人は再会を歓び、楽しい一時を過ごすが、院の顔は次第に逆鱗の様相に変わってゆく。山風が吹き、雷鳴が轟く。そこへ、あちこちの雲間、峰間から天狗が羽をならべて翔け降りてくる。「相模坊とは我がことなり。小天狗を引き連れ、仇敵を討ち平らげ、天子のお気持ちを慰めたてまつらん」と天狗の棟梁が額ずく。院は忠節の言葉にいたく喜ばれ、満足げに姿を消してゆく。

 「雨月物語 白峯の巻」も趣向は似ている。が、特に二点だけ触れておきたい。
 一つは、和歌による西行と崇徳の応答が記されていることだ。
 西行が御陵の前に跪き一夜の供養を勤めながら詠む・
 松山の浪の景色はかはらじをかたなく君はなりまさりけり
 「松山の波の様子は昔からちっとも変わりはないのに、君のご様子はすっかりお変わりになってしまいました」
 と、崇徳が「先ほどの歌に返歌を贈ろう」と姿を現す。
 松山の浪にながれてこし船のやがてむなしくなりにけるかな
 「松山の波に乗って流れ着いた船だったが、あっという間に跡形もなくなってしまったなぁ」
 もう一つは、西行と崇徳のやりとりの凄まじさだ。姿を現した崇徳を西行が諫める。崇徳が述べる恨み辛みを諫める様はさながら「諫言」そのものなのだ。
 西行。「私の前に姿を現して下さったのはありがたいが、この世のことはお忘れになるよう励み、仏の地位におつきください」。新院(崇徳)。「お前は知らぬな、近頃世の中で起こっている混乱はすべて私が起こしたことだ」。諫める西行に新院は(「保元の乱」について)「私のとった行動を人の道からはずれているとは到底言えまい」と声を荒げる。西行は怖れ気もなく、「一見道理のように見えますが私欲というものから離れてはおりませぬ」と迫る。
 すると、崇徳は長い溜息をついて「お前がことを正して問うたのは、道理にあわぬことではない。しかしそれが何だというのだ」と大乗経五部を写経し、歌を添えて送った悲嘆の心境を吐露する。
 浜千鳥跡はみやこにかよへども身は松山に音をのみぞ鳴く
 さらに、怨念に満ちた独白は続き、果ては(「平治の乱」の顛末も)「自分が仕組んだ」と言い、「今に見ておれ、平家の栄華もそう長くは続くまい」と予言する。しかも、「相模、相模」と鳶のような化鳥(けちょう)を呼んで、「早く重盛の命を奪い、雅仁と清盛を苦しめよ。あの憎き敵どもを全て瀬戸内海に沈めるのだ」と迫る。
 泰然と崇徳に対峙していた西行は、仏縁にすがるよう説得の意をこめて、再び一首の歌を書く。
 よしや君むかしの玉の床とてもかからん後はいかにかはせむ
 ここでは歌意が大転換する。「例え君が昔は玉座にお座りになっていたとしても、こうなってしまえばそれが何になるというのでしょうか。帝も平民も変わりがないというのに」と「心あまって高らかに詠んだ」というのである。
 この言葉を聞いて、崇徳は感心したのか、納得したのか、表情も和らぎ、陰火も薄くなり、崇徳の姿も化鳥もどこかへ行ってしまった。西行はその後の事態が新院のいった通りだったので、謹んで深く語ろうとしなかった、という。
 「白峯の巻」は(源平合戦の顛末が)「新院のお言葉と少しも違いなかったのは恐ろしく怪しい語り草である」と結ぶ。

 なお、『椿説弓張月』(1807年-1811年、曲亭馬琴作)にも崇徳が「怨霊」と化す場面が描出されており、その瞬間を描いた歌川国芳の浮世絵もよく知られるようだ。しかし、物語自体は源義朝が流転のあげく「琉球王国」を築くというものなので割愛した。

 

 
西行絵巻 異譚 ②

 浜千鳥跡は都へかよへども
    身は松山に音をのみぞ鳴く

                            崇徳院

 今回は先ず「保元物語」の内容を追っておく。
 崇徳(上皇)はかねて鳥羽(法皇)に疎んじられていたうえ、計略に乗せられ我が子に皇位を継がせる事ができず、後白河が即位した。鳥羽院崩御の直後、崇徳は弟である後白河らと激しく対立し「謀反」を企てた。この争いは皇室内部、摂関家藤原兄弟、武家源氏・平家らが入り乱れ、骨肉相食む凄惨なものだった。崇徳は敗れ、讃岐への遠流の身となった。これが「保元の乱」である。
 続く「平治の乱」で平清盛は決定的な勝利をとげる。「保元・平治の乱」の経過全体は「公家」政治の衰退、「武家」政治確立の契機といえよう。「平治の乱」で敗れた源義朝の遺児が頼朝であり、義経(牛若丸)であった。事態はさらに「源平争乱」へと展開する。
 「保元物語」は実弟の後白河天皇に讃岐に遠流(おんる・島流し)された崇徳の無念さ、憤りの様子を詳しく述べている。
 讃岐に流され「今やどうしようもない」と観念した崇徳は「御指のさきより血をあやし」、3年かけて「五部大乗経」を写経し、これを「せめて八幡(石清水)か、鳥羽(伏見)、でなければ長谷(奈良・長谷寺)など」の「都の頭(ほとり)」に「送置(おくりおき)候はばや」と手紙した。この手紙にはこんな歌が添えてあった。

 浜千鳥跡は都へかよへども身は松山に音(ね)をのみぞ鳴く
 「浜千鳥と私の筆の跡は都へ行くが、私はこの松山にただ一人、声を立ててなくばかり」という悲嘆に満ちたものだ。

 ところが、後白河は側近の進言をうけてこれを拒否した。崇徳は「罪を謝し」、「出家入道しても赦されぬ」とあれば「後世までの敵(かたき)ござんなれ」、「我生きても無益也(むやくなり)」というわけで、「その後は御ぐしをもめされず、御爪をも切らせ給はず、生きながら天狗の姿にならせ給ぞ浅ましき」姿となったのである。髪は伸び放題、爪も切らず、生きながら天狗になったというわけだ。
 その後の姿はさらに「御ぐし御爪ながながとして、すすけかへりたる柿の御衣に、御色黄に、御目くぼませ給ひ、痩せ衰えさせ給て」というありさまであった。「柿の御衣(かきのおんぞ)」とは天狗山伏の衣装であり、「髪はぼうぼう、爪長く、埃まみれの天狗の衣装、顔は真っ黄色、目は窪み、痩せこけてひょろひょろとした姿」。正視に耐えがたい様子をリアルに語る。
 崇徳は「あらけなき御声」で宣言した。「不慮の行業を企る也」。荒々しい声で「不慮の行業」つまり復讐、反逆を誓い、「日本国の大悪魔と成らむ」とさえ「誓状」に書いた。
 この「誓状」のくだりには、読み捨てにできない重大なことが書かれている。引用してみる。
 「『彼科(かのとが)を救はんと思ふ莫太(ばくたい)の行業を、併(しかしながら)三悪道に投(なげ)こみ、其力(そのちから)を以(もって)、日本国の大魔縁(だいまえん)となり、皇を取りて民となし、民を皇となさん』とて、御舌のさきをくい切(きっ)て、流る血を以、大乗経の奥に、御誓状を書付(かきつけ)らる」
 つまり、「罪科から救われようとして莫大な努力をしたが、叶わぬゆえに、これを三悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道)になげこみ、その力で日本国の大魔縁となって、皇(おう・天皇)を民に、民を皇にしてやるぞと、舌の先を食いきって流れる血で御誓状を書かれた」というのである。
 現実の崇徳は「外より鎖をさし、供御(くご)参らする外は、人の出入有べからず。仰出(おおせいで)さるる事あらば、守護の兵士承(ひょうじうけたまは)って、目代に披露(ひろう)せよ」という幽閉・監視のもとにあった。「外からカギをかけ、食事のほかは出入り禁止。崇徳の言は牢番人が聞き取り、目代(もくだい・国主の代理役人)に報告せよ」というわけだから「叛逆行為」など「企て」ようが無かったが、この執念、怨念は後世まで畏れられた。崇徳の怨霊、たたりが繰り返されたというのだ。ここに「謡曲 松山天狗」や「雨月物語・白峯」成立の背景がある。
 付言すれば「保元・平治の乱」以後、楠木正成らによる「建武の中興・新政」(1333〜1336 年)の僅か3年を除けば、平氏政権いらい、鎌倉、足利、戦国時代、織田、豊臣、徳川の各時代、天皇が政権の中心に立つ時代はなかった。まさに「皇をとりて民となし、民を皇となさん」という崇徳の「御誓状」が現実となったのである。
 崇徳の怨念、怨霊の恐ろしさは皇室にも代々語り継がれたと見え、明治天皇は即位に際して使者を讃岐に送り、崇徳の霊を京都へ帰還させ、白峯神宮(現京都市上京区)を創建したという。遅まきながらの「名誉回復」というわけか。「絶対主義的天皇制」確立に禍根を残さないよう、崇徳の霊を鎮め、おどろおどろしい伝承の根を断っておこうとする打算が働いたとみるのは、あながち穿ちすぎでもあるまい。
 
 
 

 
西行絵巻 異譚 ①

謡曲・松山天狗 雨月物語など

 西行が1168年(仁安3年)四国修行の旅に出、讃岐の国で崇徳院の廟に参り、弘法大師の足跡を訪ねたことは本編でも述べた。これには怪異な物語が伝えられる。
 一つは「謡曲 松山天狗」であり、もう一つは「雨月物語 巻一 白峯」である。形式は異なるが筋書きはほぼ同じと言える。原型は西行の「新院御墓讃州白峯之事」という墓参の記録にあるようだが、くわえて「保元物語」のおどろおどろしい表現を援用した、文字通り怨念に満ちた怪異な物語だ。
 「保元物語」は鎌倉時代初期の軍記物とされるが、その成立については諸説があるようだ。永仁5年(1297年)成立の『普通唱導集』に「平治・保元・平家の物語」が琵琶法師によって語られたと記されているという。これが伝承(文学)としての先駆けかも知れない。
 「謡曲 松山天狗」が世に出たのは崇徳没後約270年後、足利六代将軍義教(よしのり)の時代(在位1429~1441年)、世阿弥の作ともいうが、「分からない」というのが真相のようだ。
 「雨月物語」は上田秋成の手になり、五巻五冊。明和5年(1768年)序、安永5年(1776年)刊。怪異小説九篇から成る。あれこれの資料を消化して創作したのだろう。秋成は「雨月物語」を剪枝畸人というペンネームで発表している。なんと読むのか。「剪枝」は「せんし」と読み、文字通りでは「枝を切る」ことだが、苗字としては「きりえ(だ)」と読ませるのかも知れない。「畸人」は「奇人」のこと。とすれば「きりえきじん」とでも読むのか。「畸」は「漢字源」(学研)に「井田として区切ることのできないはしたの耕地。はんぱな数のこと。人とそりがあわない、孤立した、風変わりなさま」とある。ちなみに「剪(せん)」の項には〈難読〉という注釈があり「剪前」を「もちまえ」と読むとある。もし、秋成が「もちまえの奇人」を気取っていたとすれば、面白い。
 さて次回から「保元物語」、「謡曲 松山天狗」、「雨月物語 白峯」などの断片を拾いながら、この筋書きを追ってみよう。

 
第十八首 ねがはくは

ねがはくは花の下にて春死なむ
     そのきさらぎの望月のころ


 この歌は余りにも有名で「深読み」の余地などほとんどない。少しだけ注釈をくわえておこう。
 まず解である。この際、「全訳古語辞典」の説くところを全文引用してみたい。「(私の)願うことは、桜の花の下で、春に死にたいものだ。その陰暦2月の満月のころに。[参考]桜の花の下で死にたいと願うのは、桜を愛し、桜の歌を多く詠んだ作者としては、当然の願望であっただろう。しかし一方ではまた僧として、陰暦2月15日の釈迦入滅の日に臨終を迎えたいと願う。作者はその願いどおりに文治6年(1190年)2月16日に没した。第4句(そのきさらぎのー筆者注)は『その』が指示するものを『春』とみる解と、言外の釈迦入滅をさすとみる解とにわかれている」とある。西行の没は73歳、819年前であったわけだ。
 この歌を「辞世の句」と紹介する例がまま見られるが「死にぎわに残す詩歌」という意味では正確ではない。その10年も前につくられていた歌だから。当時としては長寿と言っても良い60歳をこえるほど生きたことは、西行にとっては「思いの外」のことだったろう。その感慨をこめて「もういつ死んでも良い」、今流に言えば「ポックリ逝きたい」という心境で「願わくば…」と詠んだものか。
 この歌には西行が好んだ「花」、「月」が詠み込まれている。「望月」とは「陰暦十五夜の満月」だ。「花」に寄せる思いと「月」に寄せる思いは対照的だが、「美」の極みではある。
 さて、「きさらぎ(如月・二月)」の花がどうして「梅」ではなく「桜」なのか。旧暦では年によって月と季節感が微妙にずれる。3〜5年のサイクルで「きさらぎの望月の頃」が新暦の4月にかかるらしい。西行が亡くなったのは新暦では3月29日にあたるというわけだ。
 西行は望みどおりに旧暦2月16日、釈迦入滅の翌日に亡くなった。これが当時に於いても、後世に於いても強い印象を与え、西行の名をさらに高めたのである。

☆ この歌で石川河川公園の「西行絵巻」は終わる。なにやらホッとした気分ではあるが折角のことなのでもう少し続きを書くつもりだ。題して「西行異譚」。長さは分からないが2つ3つのテーマとしたい。お楽しみあれ…。