カテゴリ:喜怒哀楽をともに…( 448 )

かなり強く感じたけれど、我が家の付近は震度3ということです!
これでこんなに感じるとは…!(クリック)

<追記>
千早赤阪村で震度4、富田林市で震度3、その後送られてきたメールでは大阪府南部震度4とあります。
ボクの体感では震度4くらいに感じました。あまり詮索はしませんが一応震度観測点を探してみました。
どうやら富田林の震度3は富田林市高辺台の観測のようです。千早赤阪村の震度4の観測点は千早赤阪村の水分のもののようです。とすれば、我が家の場合、山系の連なりから見て千早赤阪村の観測、震度4に近いと思われます。
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富田林には観測点は2つあるようです。が、この場合は他の地点との関係で、高辺台のものが使われているのでしょう。
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FB友達のM氏がアップしてくれていました。
● スーパームーン‼
姉の友達が、台湾の友人から送ってもらったそうです。
とあります。
我が家からはこんなに綺麗には見えませんが…!
記念に貰ってきました。
 
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 残念ながら、今日ここからはさっぱり見えない!
 何度も確認しているが、今日はダメのようだ!
 明日は見えるのかも知れない!
 アップできるのかなぁ?(クリック)

 
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特段の信心心は持ち合わせないが、毎日お茶をかえ、野草を飾り、線香を立てて、この日を待ちました。
必死にボクを守ってくれたであろう若き日の母を思うと、特段の母性を感じずに過ごした思春期や青年期が悔やまれます。
その悔悟と感謝の一端は今夏に投稿した大阪民主新報に忍ばせたつもりです。
戦後どさくさ幼少時代の記憶 
私は1944年(昭和19年)生まれ、戦後生まれの人からは戦中派と言われ、戦中派からは「あの過酷な戦争のことは記憶にあるまい」と言われる中途半端な世代です。軍や政府の中枢は敗色濃い戦局を知っていたはずですが、庶民の大半は「神風が吹く」と、戦勝を信じて疑わなかった時代です。ですから、武勲功という言葉にあやかって勲や功という字の「いさお」という名前も多く、中には「勝利(かつとし)」という文字通りの名前もある時代です。
 生まれは中国山西省楡次県楡次城内ということです。幼い頃には言語に絶する引き揚げの苦労話を両親に聞かされて育ちました。「無蓋車」で風雨にさらされながらの引き揚げがどんなにひどいものだったか想像にあまりあります。鮮烈な記憶があるのは、今は谷町筋になってしまった「拾願寺」の納屋の二階に仮住まいしていた3歳頃からです。薄暗い本堂には上から下まで帰るところの定まらない「白木の箱(骨箱)」がびっしりと積み上げられていました。薄暗い本堂の異様な光景は今も眼中から離れません。
 街には戦争で手や足をなくした「傷痍軍人(負傷兵)」があふれ、街角や時には電車の中でさえ首から募金箱を吊るして物乞いをしていました。ジープに乗った米兵が車上からキャンデーを振りまき、競い合って拾い集めた記憶もあります。その情けない姿を思い出し、顔から火が吹くほど恥ずかしく思ったのは、世の中が「落ち着き始めた」と言われる中学生になってからのことです。同じような体験を持った人がいることはずっと後になって知りました。「栄養失調」で病気になる子どもも多く、配給があると「なんば粉(トウモロコシの粉)の配給三日分です」と嬉々として近所に触れ回った記憶もあります。「バス住宅」と言って廃車になったバスを「市営住宅」に活用している時代でもありました。
 叔父は戦後数年して単身シベリアから帰国しましたが妻子とは生き別れ、生死不明のまま「戦時戸籍抹消」で再婚したところ、ずっと後になって生きていたことが分かりました。中国で暮らしていた従兄弟は文化大革命後帰国しましたが、口に言えない悲惨な体験をしています。私も両親のどちらかが不在の引き揚げであれば確実に「残留孤児」となっていたに違いありません。
 こうした幼時の体験を振り返ると、「戦後焼け跡闇市世代」ならぬ「戦後どさくさ幼少世代」の私たちにも戦争の悲惨さは刻印され、記憶から去り難いことが分かります。戦争を知らず(自覚せず)、敗戦のことも分からない幼少期を過ごした者の記録はもっと掘り起こされても良いのではないかと思う昨今です。
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添付の写真は、生後100日のもので、引き揚げ時、母がポケットに入れて持ち帰ったためシワだらけですが、当時の写真はこれ一枚しか残っていない「貴重なもの」です。
 ようやく結論が確定したようです。
 この件に触れるべきかどうか、ず〜っと迷っていました。が、やはり触れざるを得ないと観念しました。
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 当然だとは思いますが、残念なことです。
 よもやこんなことが起こるとは思ってもみなかったことです。
 たった3人の府会議員が2人になってしまいました。
 この件の最初の報道は10月26日のことでした。直後の報道、その後の報道に「指導と監督の責任」として党大阪府委員会の責任に触れられていたのが印象的でした。
 もっぱら記者会見などに付き合った柳氏には敬服です。
 ボクはもはや当事者ではありませんが、府委員長や自治体部長、府議団長や地区委員長の心境はどんなだろう…と気持ちが巡ります。
 襟を正し、気を引き締めて、前進への誓いを新たにするほかはありません。
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 11月2日、夕刻6時頃、宵の明星と月の姿が綺麗だったので、金剛大橋のところで撮ってみた。
 アクオスのタブレットでどのくらい写せるのだろう?
 テストでもある。
 暗いので撮れないだろうとは思ったが、何とか写ってはいる。
 左上方の小さな白い点が宵の明星、右上方が月だ。
 街の明りや夕焼け、PLタワーなども見える。
 まぁ、こんなものだろう。
 けど、夕刻の写真はもう撮らないことにする!
 明日は朝から福井へ行くので、その準備もしたいし、早寝もしたい!
 が、どうにもならないのが、大阪から沖縄へ派遣された警察官の「土人」、「シナ人」発言だ!
 府知事の松井氏が、こともあろうに労をねぎらっている。
 こんなことで良いのか!
 怒りがおさまらない!
 で、この碑の意義を、再度しっかり噛みしめたい!

   
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 台風18号は近畿からは逸れそうだ。ヒドイことにはなるまい。
 けれども大阪管区気象台からは次のような注意報が流されている。
 平成28年10月05日16時43分
  大阪管区気象台 発表
 台風第18号は、5日夜のはじめ頃、大阪府に最も接近する見込みです。6日明け方にかけて、強風や高波に注意してください。

 さらに、ボクのPCに届いているおおさか防災情報メールによると、富田林を含む南河内のほぼ全域に大雨、雷、強風、洪水注意報が発令されているとのことだ。
 夕焼けが凄い!との声がかかったので、金剛大橋まで出かけて、写真を撮ってみた。
 左手、上方に三日月がかかっているのが印象的だった。
  母子猿 栗を抱えて 差し向かふ
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 お隣から栗をいただいた。
 もちろん剥いてあるのだが、一つだけ毬栗を入れてくれてあった。
 季節感、風情たっぷりではないか。
 もちろん食すのだが、少しもったいない。で、玄関に飾ることにした。真っ赤なテーブルクロスがある。槍を抱えたアイヌの置物がある。母子猿が差し向かいに二つの栗を抱えている様も面白いのではないか。並べてみるとこんな感じになった。

 アイヌのオジさんに毬栗を剝いてもらった母子猿が「さぁ、いただきましょう!」と嬉々としている姿に見立てたのだが…!

 よく考えると辻褄が合わない構図でもある。
 北海道にもともと栗の木はなく、和人が持ち込んだものだという説があるという。
 野生の猿は北海道にはいない。下北半島が北限だともいう。
 古今著聞集には 『母子猿』 という儚い説話もあるらしい。
 あれやこれや考えると、どう見ても素人の手遊び(てすさび)にしか過ぎない飾り物だ。

 だが、なんとなく時間を過ごすには面白い飾り物になったような気がするので、しばらくこのままにしておこうと思っている。

 栗を剥く 穂先を待つか 母子猿
 
   流れゆくがっかり感や鰯雲

 長い間、このブログにアップすることができなかった。あまり意識はしていなかったが、どこか気落ちしていたのだろう。

 一つには、6月末に母が亡くなったことがあるような気がする。 96歳だったから「天寿を全うした」とは言えるに違いない。だが、末期は哀れだった。かなり重症の認知症に見舞われていた。脚が壊死していて、初めは足の小指、次には膝下から切断した。ボクガ決断した。でも、さらなる切断にはストップをかけた。これ以上の手術は苦労以外の何物でもないと思ったからだ。
 母の葬儀は、ほんの身内だけの家族葬とした。14〜15人のささやかなものになった。大きな葬儀の世話をしたことはあるが、こんなにささやかな葬儀を取り仕切ることは初めてだった。でも、それなりの運営はできたのではないかと思う。最後に、みんなで「千の風になって」を歌って送った。
 ボクに信心心はないが、毎朝小机に置いた母の遺影に飲み水を取り替え、駄菓子を供え、線香を一本立てている。信心ではなくとも、追憶はあると思うからだ。
 そこには、往年の写真と
 梅雨晴れ間一言ずつの家族葬
という我流の川柳が飾られている。

 二つには、参議院大阪選挙区の結果があるのではないかと思う。
 折角定数が増えて、今度こそ大阪選挙区で議席を確保できるのではないかと期待した。ところが、自民党の策略とそれに呼応した「おおさか維新」の計略の結果、期待する候補者の議席獲得はならなかった。
 ある人が「もっと伸びると思っていた」「改憲勢力の3分の2を許してしまった」「渡部結さんを通せなかった」というがっかり感に答えることが重要と指摘しているらしいことを知って、妙な共感を覚えた。「がっかり感」とは言い得て妙の表現ではないか。

 三つには、東京都知事選挙の経過と結果があるようだ。
 各政党の努力、鳥越氏の奮闘、それを支えた人々の奮闘に異論はない。その経過に宇都宮氏の動向があったことも承知している。しかし、その経過や結果についての鳥越氏の応答、宇都宮氏の応答には歯切れの悪いところが多々あるような気がしてならない。各政党のコメントも少し歯切れが悪いのではないか。「なるほど良く分かった」といえる解明にはたどり着けていない気がする。と言って、どこかに、誰かにわざわざ注文をつけるつもりでもない。

 で、こんな気持ちになってしまったのがこの夏であった。

 もうえぇよ背ぇ伸びせんとき年金者

 とは言え、イロイロやるべきことの多い秋を迎えたのです。
 なんとか、やっていけまっしゃろ!