カテゴリ:喜怒哀楽をともに…( 447 )

〽鼻歌にのせて…
昔を 謳う…
子どもたちが 笑っていても…
平気 へいき~!

〽鼻歌にのせて…
今を 謳う…
少しくらい 老いていても…
平気 へいき~!

〽鼻歌にのせて…
明日を 謳う…
棺の中で 歌っていても…
平気 へいき~

☆ てなわけでお互い長生きしましょう!
  「唇に歌を! 心に太陽を!」という
  懐かしいスローガンもありましたよネ!
  (ボクは音痴ですけど~!聞くのは好き!)
              m(__)m 敬白
★ 返信あり
  高校生の息子さんが「謳う」と「歌う」の違いをケータイで調べたそうです。
  親子の「いいひと時だった」とか… (^_^)

★ 追記
  「棺桶の中から歌声が聞こえたら、コワイヨ〜!」とのたまったヒトあり… ヾ(℃゜)々
 先輩に贈った賀状、後輩に贈った賀状、それぞれを自分が開いているブログで紹介してくれていたのです。

 先輩は、既に80歳をこえておられるが時事評論も交えたユニークなブログを開いておられる方です。昨年は「80歳からのブログ」と題して本にまとめられたほどの健筆家です。1月5日付のブログである会合の模様を紹介して次のように書いておられます。
● 私は自己紹介のなかで、ある友人が年賀状で私のことを「光輝好例者」と書いてくれたことを紹介した。一瞬、ざわめきを感じた。念のため全文を記しておこう。「よき我らが先輩!!今年も光輝好例者でいてください」という励ましである。

 もう一つはまだ若い、いつも生真面目に頑張っている女性です。「月光仮面」とは少し面はゆいけれど、こんな文章です。
● お世話になっている先輩から年賀状が届きました。「ゆっくり!!のびのび!!元気に!!いきいき!!あわてず!!さわがず!!歩いて行こう!!」と書かれていました。困った時の、私の「月光仮面」からの言葉です。おっちょこちょいであわてんぼな私。ちょっとしたことで慌てふためいたり元気をなくしたり…そんな私を見てきての言葉だと分かります。

 80代の先輩、30代の後輩、その真ん中辺りにいる60代のボク、世代を超えて心通う嬉しさを味わいました。
娘が帰省するときは、クルマで送り迎えをしなければなりません。
モカがいるからです。乗り物に弱く、酔うのです。
迎えに行くときに、☎をしておきます。
すると、酔い止めを飲ませてもらって、安泰というわけです。

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☆ 疲れたら 
  しっかり休む
  そして 少〜し!
  遊んでみる 
   ── それがいい!

☆ ボクらは──
  ようやく
  人生の遊び時間 !
     大事にすごそうよ

                        m(__)m
 昨夕、退勤の帰路、電車を降りていつものように家へ電話をかけようとケータイを取り出しながら、ふと西の空を眺めると明るい星が二つ斜めにならんでいる。その下には三日月が…。可愛い目とおちょぼ口が三角形を結んでいる。濃紺の夜空に金色の三角形…。絵本でも眺めているような愉しい光景だ。電話口に出た連れあいに「ちょっと外に出てみぃ。綺麗やで!」と声をかける。「どこ?どこ?見にでる!そこまでに迎えに行く!」と慌て気味の声がする。
 帰路を急ぎながら「あの星は何と言うんだろう!一つは宵の明星かな?Kちゃんに聞いてみよう」と思う。彼は星が好きで、ちょっと詳しい。ケータイに出てきたKちゃんは「今、家でG君と呑んでる」という。「ちょっと出れるか?あの星何と言うんかなぁ?」。「待って、待って、外に出る」。「どこや?どこや?」。「西、西!西の空!」。「あっ!ほんとや!きれいなぁ!」。「あの星、何や?何でこうなってるンや?」。「わからん!偶然やろ」。道路の向こうにKちゃん、G君が出てきて、夜空を見上げている。二人の黒い影…。足を停めずに手を振ると、気がついたらしい。二人も手を振っている。
 橋の手前で連れあいに会う。「きれい!きれい!」を連発しながら、欄干にもたれ、歩を停める。川面に逆さまになった星と月の三角形がきらきら耀いている。「そうや!S子ちゃんに電話したろ!ケータイ貸して…」。ケータイにかけるも出ない。「家に掛けよ!」。「もしもし、お月さんと星がきれいで、ちょっと裏から顔だしてみぃ!」。S子ちゃんの家は川に沿っているから、ここから見るのとは違う深い風情があるだろう。家の方を見ていると、パッと灯りがついて、人が出てくる。しばらく眺めてから、こちらを振り返っている。手を振る。向こうからも手を振り返す。娘さんらしい。
 家に着いた途端、電話が鳴る。Kちゃんだ。「わかったで、下が木星。上が金星や!」。「ふーん!やっぱりよう知ってるなぁ」。
 連れあいが「そうや!お隣さんに教えたろぅ!」と飛び出して行く。何事かと顔を出した奥さん「わぁきれい!童話みたい!お父ちゃんも呼んでこぅ!」。食事中だったらしいご主人が、これまた何事だ!と、口をもぐもぐさせながら出てこられる。
 何か、得をしたような気分。二人だけなのだが、食事は感動的な夜空の話で盛り上がっていた。月と星。ほんの少しの時間で位置は大きく変わるはずだ。「どうなってるんやろぅ?」。外に出てみると、つい先ほどまでメルヘンチックにかがやいていた、きらきらした二つの目、おちょぼ口の三角形は既に沈んでいた。空が動いたのか。地球が動いたのか。空も地球も動いているのか。金星と木星がこんなにも至近に見える夜、三日月までが絡む夜があるのか!
 見つけた自分は本当にロマンチストだなぁ!口には出さなかったが、内心はとても充実していた。ボクは目が悪いから、本当に夜空を愉しむ機会は多くはなかった。だから、見えるときは目をこらして見る。その甲斐のある一夜だった。
 今朝、新聞を見ると「朝日」にも「赤旗」にもその一夜の写真が掲載されている。「そうか!新聞に載せるほど価値のある場面を見ていたのか!」。Kちゃんから電話。「夕べ、金星と木星の位置を反対に説明した!」。
 いいんだよ!暗澹となるほど悲しい事件が続き、辟易するほど苛立たしい政局が続く、そんな日々の憂さを晴らしてくれた星や月…。宇宙を眺めるロマン!地上に生きるロマン!そんなありがたさを感得できた一夜だったのだから…。      〆
 ネットなどで「ちゃーちゃん」を探すと、圧倒的に犬や猫、ペットの愛称であることが多い。この語感には、どことなく可愛いイメージがあるのかも知れない。
 しかし、ボクのニックネームである「ちゃーちゃん」の由来は、そんなに可愛いものではない。昭和19年、「敗戦」1年前の生まれである。まわらぬ舌で「いちゃおちゃん」と言うのが訛って「ちゃーちゃん」となった幼児語である。
 同世代には、結構「ちゃー○○」というニックネームで呼ばれている男性がいる。大抵は、勲とか、功という名前である。幼時にまわらぬ舌で「いちゃお」とか「ちゃお」とか自称していた。その音が訛って周囲の人から「ちゃーやん」「ちゃーさん」「ちゃー公」「ちゃーちゃん」とか呼ばれるようにもなった。「ちゃー」という音が共通している。
 さて、勲、とか功という文字ははどこからくるのか。想像できる人はもうかなりの齢を重ねていることだろう。さよう、敗戦の色濃いとは知らず、男の子に「武勲功」という言葉から一字をとって、戦場に出かけ、勇ましく戦い、かくかくたる戦果をあげて欲しいと考えた、当時の親たちの気持ちがこめられた名前のなのである。まさに「勲功著しい」ことを願ったのである。
 しかし、それが「ちゃー○○」となってしまうと、いかにもペットのような、なよなよしい語感をもった、正に名付けた親たちの期待とはかけ離れたあだ名・ニックネームになってしまった、というワケだ。
 因みに、ボクと同じ年に生まれた者達の中には「勇」だとか、「護」、果ては「勝利」などという「戦勝祈願」丸出しの名の者もいる。親たちの願いは同じことだった。
 庶民は、敗戦目前などということを全く知らなかったのである。
 秋葉原で7人を殺害し、10人を負傷させる通り魔事件がおこった。
 むごたらしい事件である。亡くなられた方々を心から悔やみ、負傷された方をお見舞い申しあげたい。その場に居合わせた方々やご遺族にもにも大きな衝撃をあたえたことだろう。PTSDが懸念される。

 おこった事実は新聞やテレビ、ラジオの報道で理解できる。しかし、それだけでは軽々に論評しがたい事件だろう。
 だが、ボクがまず直感したのはアメリカのような銃社会であれば、乱射事件間違いなしではなかったか…?という感想である。

 時系列でメールが発信されているという。かなり計画的なのである。

 http://www2.asahi.com/special2/080609/TKY200806090082.html

 「誰でも良かった」という言葉がまたしても繰り返されている。誰でも良かった…とは、全く無責任きわまりない、残虐な行為ではないか。殺害にいたる動機も、批判・攻撃すべき対象も特定されていない。単純すぎる情緒である。
 これから、具体的な情報を集めていろいろな角度から刑法学者や心理学者・教育者などが解析してくれるのだろう。それを待ちたい…。

 ただ、ボクなりに感ずるところがあるので、ふれてみたい。
 事件を起こした青年が精神衛生上の障害・病気を持っていたとは今のところ思えない。だとすれば、この事件にいたる青年の内面には動機があるはずだと思う。怒りや憤りの感情があり、その鬱憤をはらすために行動したのではないか。「誰でも良かった」というのはその怒りや憤りの矛先をどこに向けるべきか、「特定できなかった」ということだろう。「世の中全部に怒り、憤っている」と言うのと同じことだ。
 それは、主体的には「自分の感情がどこからくるのか解らない」という自己同一化の遅れと言えるかも知れない。また、世相や世の中の仕組みがわからず、社会のどこにいて、どこへ行けば良いのか認識できないという幼さ、無知かも知れない。
 この青年は自らすくすくと自己を育むことができなかった。彼には世の中・社会のシステムが大きすぎて、そのシステムを受け入れたり、変革したりするために働きかける余地はなかった。つまり、閉塞感に充ち満ちていたとは言えるだろう。

 だが、どんなに苦しい環境の中でも、自分を信じ、明日を信じて生き抜こうと懸命に努力している青年たちがいることを忘れてはいけない。夜のとばりは重く、暗くても、必ず煌々と陽がのぼることを信じて、苦闘を続けている青年たちがいることを…。

 罪を犯したこの青年は裁きを受けなければならない。更正の道を開けるかどうかは、この青年自身の努力次第であろう。
 しかし、犯人を裁けば一件落着とは言い難い。このような犯罪を生み出す世の中、社会の現実もまた、裁かれねばなるまい。
 この種の事件の多発ぶり!を見るにつけ、人が人として育ちぬける健全な教育環境の回復、人が人として交わることのできる世の中への前進・改革こそが、再発防止の決め手だと痛感するのである。

 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については … 最大の尊重を必要とする」という憲法の言葉は重い。
 「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」という教育基本法の言葉とともに…。