カテゴリ:鶴彬あれこれ( 12 )

   暁を抱いて闇にいる蕾
b0142158_17594971.jpg

 今日は「あかつき川柳会」の主催する鶴彬の碑前祭の日でした。
 ボクにも挨拶の機会をいただいたので、大要、以下のようなことを話させてもらいました。
       *       *       *
 今日は9回目の碑前祭であり、取り仕切ってこられた「あかつき川柳会」創立15周年の年だと聞いております。まず、この間の労をねぎらい、お祝いの言葉を贈りたいと思います。
 鶴彬の作品を全集として最初に刊行されたのは一叩人(いっこうじん)さんでした。ここへ寄せていただくにあたり、もう一度目を通してきました。
 この碑にある句は昭和11年(1936年)3月15日の「蒼空」第4号、火箭集(かせんしゅう)に収録されている5つの句の一つです。順に読んでみます。
 村々の月は夜刈りの味方なり
 暁を抱いて闇にいる蕾
 枯芝よ!団結して春を待つ
 吸ひに行く 姉を殺した綿くずを
 貞操を為替に組んでふるさとへ

 綿くずって、今日のアスベストを思い出させますねぇ。
 これらの句を詠んだ時、鶴彬は27歳。ハンセン作家として有名な北条民雄が「いのちの初夜」を書いた年、堀辰雄が「風立ちぬ」を書いた年でした。
 政治的には、2・26事件により軍部ファシズム確立の端緒が開かれた年。人民戦線運動に大弾圧が加えられ、1千人余が検挙され、235人もの人が起訴された年です。この年メーデーが禁止され、スペインではあの内乱が起こった年でもあります。
 この碑の句について井上麟二氏(鶴彬が世話になった剣花坊氏の長男)が親しみを込めて、次のような評をしています。
 「これは鶴君の稀らしい感傷だ、闘志の先端に咲いた感傷の花だ、何か深刻な内容があるかに見える激しい語は使ってあるが、そんなことは作者の任意で、不思議と私はそんなものを感じない。そしてこれはいい句だとただ柔順に受け入れた。上手な君の句だから、と言ふ買かぶりがあるのではあるまいかと二度三度熟考したが、どんな未知の人の作であってもやっぱり秀句として抜く句である。この見解は鶴君には不満なのに違いないがそれは評者の罪ではない。こんな句を作った鶴君の罪である」
 鶴彬は一般に反戦川柳作家と言われていますが、本人は到達点として「プロレタリア川柳」と自称しています。この句にはリアリズムとリリシズムの見事な融合があるように思います。
 ひるがえって、安倍内閣は今、極端なだまし討ち、暴走を続けています。この時に、私たちはいかにあるべきか。鶴彬の決意を学ぶこと、引き継ぐことの大事さは言うまでもありません。しかし、私たちはそこからもう一歩前へ行かねばなりません。私たちはいつまでも「春を待つ枯芝」、「闇にいる蕾」であり続けるわけには行きません。先人たちが切り開いてくれた道をさらに大きく進まなければならないのだ、という気概をこめて碑の前での言葉としたいと思います。ご清聴ありがとうございました。
 写真が語る・不屈の29年
 鶴彬は黙らない
   (石川ー大阪ー石川ー東京ー岩手)
b0142158_11393231.jpg
 このパンフレットは昨年11月に「あかつき川柳会」によって発行されていたものです。
 当然、ブログ等でアップされていることだろうと思っていましたが、検索するとどこにも無いようなので、遅まきながらボクからアップしておきます。
 ここには21㌻とコンパクトながら、多彩、的確に鶴彬の作品、経歴をはじめ、小学生を含む鑑賞者の受けとめ、各地の鶴彬碑のことなどが紹介されており、写真やイラストも豊富です。
 発刊の経過をみると「鶴彬を宣伝するのにもっと手頃な冊子はないか」という要望にこたえて、「機関紙協会大阪府本部作成の『鶴彬のパネル』を基本に」作成されたとあり、プロの手が加わったにふさわしいできばえです。
 b0142158_1245319.jpg細々紹介するのは無粋でしょうから、目次だけ紹介しておきましょう。
 発行は「あかつき川柳会事務局」、頒価は200円、連絡は岩佐ダン吉さん、TEL&FAX072(428)0325です。
 鶴彬を知らない方はもちろん、よくご承知の方にもお勧めしたいパンフレットです。
 ボクは鶴彬の川柳が好きですが、あんな風にはとても詠めません。
 彼の評論をを読んでいて印象深いのは、彼が川柳をホンモノの文学に育てたいと研鑽を重ねていたことです。
b0142158_13133066.jpg

   *画像はクリックで拡大できます。適当なサイズに直してお読みください*
 今日、夕刻帰宅すると書き留め郵便が届いていました。
 あかつき川柳会からの「入選句集『あおぞら』№2」でした。
b0142158_20511721.jpg

 ボクの自由吟が植竹団扇氏の選で大賞を頂いていました。
 同氏は「信仰心ではない。大江健三郎はそれを『オプティミズム・ウィル』(意思における楽観主義)と表現している」と身に余る選評をしてくださっています。
 後記を読んでみると「42都道府県から619人、約5,000句の川柳が集まった」そうです。その中で8人の大賞受賞者の一人に選ばれたのですから、ホントに光栄です。
 ご覧のようにこの川柳大会には「腕」「生きる」「地球」の課題吟と「自由吟」を8人の選者が選句されていました。
 ボクもそれぞれに2句ずつ投句していましたが、公表を控えるのがルールだろうと、このブログへのアップは控えていました。ようやくアップできる日がきたので、投句した8句もここにアップしたいと思います(ガマンするのは長かったなぁ!)。
b0142158_21374366.jpg

   *画像はクリックで拡大できます。適当なサイズになおしてご覧ください。
 
大勢の見るところ鶴彬は日本共産党の「党員ではなかった」ようです
一叩人氏は「金沢第七連隊赤化事件判決文」引用にあたって「党員であったと考えるのが自然」と述べ、角田通信(相被告人)の「入党推薦者であったと思われる」と書いています。
しかし、この判決文を良く読めば、鶴彬は当初「日本共産党のスローガンは大体に於いて全部之に共鳴すれども其中君主制度の撤廃なる一項目は我国の国情に照らして直に之に共鳴し難しとの旨を述べ」ていました。しかし判決は「弁疏すれども…私有財産の否認に賛成し居ると共に君主制度の撤廃をも希望し居るものなりと認定せられても亦已むことを得ざる旨の自供及予審官尋問調査中(の)供述記載あるに徴し之を認む」とあり、官憲が鶴彬を陥れていった経過が窺えます。
また、相被告人である角田通信について「浅学にして年少気鋭現社会制度の欠陥を痛切に感じたることなきは勿論共産主義の全貌に付深く研究検討するところなく僅に同僚より刺激を受け漫然同主義に感染共鳴し入党するに至りけるもの」と驚くほど軽くあしらい「懲役一年、執行猶予二年」と判決しているのです。鶴彬がこんなに軽率に軍隊内で「入党工作」をし、「推薦者」となるとは考えにくい話です。
さらに、元柳樽寺川柳会同人、勝目テル氏(柳名市来テル子)は「鶴さんは共産党員ではなかったが、石川県下ではナップで活躍していたようだ」と一叩人氏自身の取材に対して語っています。要するに「鶴彬党員説」は官憲側からの情報はあっても、党そのものや活動家周辺からの情報にはそれがないのです。
不審な病死(三八年・二九歳)に至る
昭和一三年九月一四日午後三時四〇分、東京市淀橋区柏木町(現在・新宿区北新宿四丁目六番一号)の東京市立豊多摩病院(伝染病院)にて没。
「鶴君が殺されたのは赤痢菌注射説もあるようですが、当時の官憲のしたことだから何を信用していいのか分かりません」(井上麟二氏・井上剣花坊氏長男)
「今日はおもひがけなく胸を刺されたやうな傷ましいことを聞いた。それは喜多氏の精神的な異状と言ふ最大不幸の報であった。自分は聞いた瞬間にアヽシマッタと心の中で叫んだ」(九月六日・井上信子氏日記)
喜多一二 — その出発と止揚の道筋
 一二がプロレタリア川柳の旗を高く掲げたことは、今日ではよく知られるようになってきました。しかし、一二が初めからプロレタリア川柳作家であったわけではありません。
● 一二のデビューの評論が「ネオロマンチストなれ」「よりよき生命詩人を生み出すか」と述べたように、一九一〇年代から二〇年代にかけて広がっていた大正デモクラシーとそれを反映してインテリ層や文化・芸術運動に広がっていたデカダンス(虚無・退廃)、ダダイズムの風潮、その傾向の色濃いものでした。
 一二は「貧しい頭の断層面」(二六年・「影像」三〇号・一七歳)という評論で、「私の詩と、人生との簡略な線を描いておく人生は虚無だ!」「私としては、虚無というものを、おそまつながらつかんだ自信を持っている」「あゝ私はしみじみ思う。老子をして今日にあらしめば、あるいはダダイストであったかも知れぬ、と」「詩即生活、生活即詩ではなく、時空を超越せる存在が詩である。私の詩である」「私達は虚無の太陽の前に立てる詩人でなくてはならぬ。私達は滅亡へ足を運ぶ。私の詩は滅ぶべき生命の殻だ。生命の記録だ。故に私は、常に私の過去の詩を捨てる。過去の詩は私の殻だからだ」などと書き、この前後、虚無的・ダダイスティックな川柳も幾つか創っています。
 この秋、一二は石川県を出て、大阪・四貫島の町工場で働くことになります。
● 一二が「虚無の殻を破る」と題する評論(二七年・「影像」三七号・一八歳)を書き、「生命主義」への到達を宣言したのは、その翌年でした。
「諸行無常 — 寂滅無為 — の境が深く先輩達の生命主義的な歩に結びついて来たことを痛感する」「虐げられ、惑はされ、欺かれ、あるいは悲しみ嘆き苦しみ、さては喜悦し讃美し躍動する複雑なる生命相を真実一路の白道に統一の直立を保たせつつ真と善と美とのともしび燃ゆる聖光なる松火をかざしつつ、ひたすら歩む姿こそ私の愛する姿である」
とはいえ、柳紙「氷原」での論争を通じて、一二の転換は徐々に始まっていました。
● 一二がレーニンの「何をなすべきか」を念頭に置いたのではないかと思わせる評論「僕らは何を為すべきや」が「川柳人」第八二号に掲載されたのは二七年(昭和二年)、一二、一八歳の時です。尊敬する先輩、森田一二に伴われ東京に赴き、井上剣花坊と接触、母の再婚先に寄寓している頃でした。一二は「最近の川柳界は明らかな二つの傾向に分裂した。その一つとは田中五呂八氏による生命主義派、も一つとは森田一二氏によって唱道されたる社会主義派のそれ」として、自らは「社会主義派」に拠ることを宣言したのです。
 「近代人道主義の巨匠レオ・トルストイは人生のための芸術を唱へた。…かのマルクスが唯物史観において示したとおり、いかなる芸術も当時の社会的経済的機構の影響なしで誕生し成長することはできない」「還元すれば○○○○(社会主義?共産主義?)の短詩として文壇よりも社会へと進出せねばなるまい。今日民衆の飢えているものは実は川柳の如き街頭の芸術であり、批判の芸術であるから」
● 一二が本格的に「プロレタリヤ川柳」を標榜したのは二八年(昭和三年)一九歳の時に発表した評論です。これは「氷原」二九号(五月一〇日発行)に掲載され、「生命派の陣営に与ふ」と題し、「別題—ブルジョア神秘主義川柳史観を克服—プロレタリヤ川柳の無神論的立場を明瞭にするの一文」という長い副題がつけられていました。内容は「プロローグ」「生命派を克服する無産派の理論展開」「搾取の道具としての神秘主義の正体」「エピローグ」という四章からなる本格的な論文といえるものです。
 その立場は、「僕はマルクス主義的無神論に立脚し、右の反動派の理論をいちいち検討し、そのブルジョア的正体を暴露して行き、我らプロレタリア川柳の序論ともいうべきものを展述したい」というもので、マルクスやエンゲルス、ローザルクセンブルグ、レーニンなどの言葉も引用されるなど、一二が基本的に無産派・マルクス主義・共産主義の立場に立とうとしていることがわかります。
 また、当時の論壇を中心に繰り広げられていたいわゆる「アナボル論争」について「ボルシェヴィズムとアナキズムの理論闘争の際、アナキズムの個人主義論に対して書かれた共産主義文学論」を擁護する見地を示しています。
● この評論に先だって、「川柳人」五月一日号に一二の「川柳の発生的意義と新興川柳の転換」という評論が掲載され、そこでは「新興川柳はいづこへー直ちに答へる。無産階級—。来るべき新時代を創造するものは実にこのプロレタリア階級であるからである」と述べていました。この評論は「川柳人新年号にのせて貰うつもりでいたところ、次々と延期され、とうとう五月号で、やっと発表してもらえた」とのことです。
●鶴彬はプロレタリア文学擁護の立場に立って川柳論を展開し、ほとんどすべてと言って良いほど各流派の主宰者と旺盛・過激に論戦を展開していました。まさに孤軍奮闘、「鶴彬孤塁を守る」の感さえあるほどです。それは当時の時代背景を考えるとき、高く評価されるべきものでしょう。しかし、そこには、やや機械的な「マルクス主義的論法」があり、かなり「打撃的な批判」が展開されている点には、今日的な視点で正確な認識が必要だと思われます。
ここで詳述する暇はありませんが、当時の「プロレタリア文学・芸術運動」の「時代的制約」、言いかえると「機械的一面性」が色濃く反映しています。ナップやコップには川柳の部門・機構はなかったのですが、鶴彬の論調には他の芸術部門の運動体と同じような特質(長所と短所)があると言っても良いでしょう。
川柳を短詩型文学の位置に高め、
  「文質彬彬」たる境地を切り開く決意

川柳人は川柳を和歌や俳句と並ぶ「短詩型文学」の一形態と考えますが、広く世間を見ると必ずしもその地歩を確立しているとは言い難いようです。ですから、鶴彬は川柳の位置を高めるために並々ならぬ努力を払っています。その一、二をあげておきたいと思います。
●鶴彬は三六年(S一一年)・三月一五日発行の「蒼空」第四号に「古川柳から何を学ぶべきか」という評論を書き、「現在の新しい川柳家たちは、もっと古川柳を学ばねばならない」として、「…といふのは、古川柳のすべてではなく、その特殊な評釈的事項などではなく、その特にずばぬけた作品における川柳的現実探求の精神とその川柳的表現方法に就いてである」と述べています。幾つかの古川柳を例にあげて「特に諷刺的な現実認識とそれにふさわしい形象化」と特徴づけています。また、「即ち生きた現実を生きた矛盾の姿によってあらわすという川柳文学独自の諷刺的精神や表現方法が、これらの現実に太くたくましい脈動を与へてゐるのである。これは、川柳以外の短詩としての、短歌、俳句等のとうていなし得なかった特徴であろう」と書き、「ところでいま僕の思ふのは現在の新しい川柳がその高さをほこりながら、果たしてこの古川柳がもつ文学的完成を、その新しい仕事の上に創造しているかどうかといふことである」と述べています。
●同年六月「俳句性と川柳性」という評論で「俳句は自然を詠み、川柳は人事を扱ふ」という一般論を検討し、「いわゆる俳句が自然象徴詩として現れたことは、現実の生活葛藤をよそにして花鳥風月にたわむれていられる有閑層を地盤としていたことなのであるし、その反対に川柳が人事を諷刺せざるを得なかったといふのは、金銭や身分や愛欲の人間生活の矛盾のうづからぬけ出すことの出来なかった勤労層を土壌にしていたために外ならない」と振り返ります。しかし、これが「時代の移り変わりによって…さまざまに変革されてゆくことは、あたりまえ」で「人事諷刺の川柳から小ブルジョアインテリの懐疑や苦悩を反映した神秘川柳が生まれたり、自然象徴詩の俳句から、進歩的インテリや勤労者のイデオロギーをはらんだ現実俳句がとび出したりしても、少しも不思議ではなくかへって当然」と書きます。
「いわゆる俳句性と言ひ、川柳性と呼ばれるものは一応にはその発生的事情、条件および内容と形式または創作権によって決定されるのであるが、それは歴史的な発展に連れて内容的な変革を与へられると、その形式または創作方法を、新しい内容に密着させることによって、徐々に時には急速に新しいタイプをつくりあげてゆく」「俳句性、川柳性は、その内容的主題にかゝってゐるのではなく、その完成された形式または創作方法にはらまれてゐる」
つまり鶴彬にとって「たとへ俳句がどんな諷刺的な立題をとらえていやうと、またいかに川柳が叙情的な対象に立ち向かっていやうと」川柳は川柳であり確固とした文学なのです。
 近年、反戦・プロレタリア川柳作家鶴彬(つるあきら)がマスコミ紙にもしばしば登場、大阪城公園・衛戌(えいじゅ)監獄跡地に記念碑建立など、再評価の機運が盛り上がっています。今年に入って小説が上梓され、映画「鶴彬 こころの軌跡」(神山征二郎監督)も完成しました。

少年・喜多一児衝撃のデビュー
 
 鶴彬の本名は喜多一二(きたかつじ)。明治四二年(一九〇九年)石川県河北郡高松町の生まれ。幼くして父を亡くし、母は再婚して上京。女工十人ばかりを置く機場(はたば・羽二重を織る工場)を営む伯父の養子となります。成績優秀な少年でしたが師範学校進学の念願叶わず、家業を手伝うかたわら川柳に惹かれてゆきます。
 その一二が衝撃のデビューを果たしたのは僅か一六歳の時でした。この頃の作品に「暴風と海との恋をみましたか」、「神さまよ今日のごはんがたりませぬ」があります。
 私がとても驚いたのは「喜多一児」というペンネームで柳誌「影像」に掲載された「革新の言葉」という評論です。「如何なる時代においても、生活様式が、哲学が、宗教が、クライマックスに達した次の瞬間において必ずや革新運動の起立した事は過古(ママ)の歴史をたどる時において明瞭である。そしてその革新運動は伝統の域を護る人々から異端視され、虐待されつゝも、やがて次の新時代を樹立した事も見逃すべからざる事実である」と川柳革新の決意が述べられ、自身についても「『自我の革新』こそ真の革新である!」と書き、「『マッチの棒の燃焼に似たる生命』/これが本当の川柳ではなかろうか。/しかし私は、それを発表するだけの勇気はなかった。…指導者なく、参考書なく真に孤独の奮闘を重ねた私は、今漸く微かな光を認め得るようになった。私は此の内的必然進展を尊く思う。…私の革新意図は度を強めた。…今私は黎明をみとめたのである。…地を歩む詩人なれ/大地を踏破するネオ・ロマンチストなれ…こうした努力が私を『沈黙』にさすか。将亦よりよき生命詩人を生み出すかは知り得ない。/ただ私はひたすら前進する。前進する」と述べているのです。
幼少期から「暗黒政治」の世相かぎ取る

 小学生の頃から新聞に目を通していたという早熟、利発な少年一二は、日清・日露戦争時のことや「富国強兵(=近代的軍事力の創設・増強)」と「殖産興業(=資本主義的生産様式への移行)」のもとで後に「財閥」となる巨大資本の形成。その影に泣く職工や女工、農村の疲弊、軍や警察の横暴などの世相を敏感に嗅ぎ取っていたのでしょう。横暴を極める権力者達への諧謔・諷刺、虐げられる者への限りない共感・連帯の作風の土壌は幼い頃から培われてきたと言えるように思います。
 一児少年は当初、抒情風の川柳をものし、青年期の一二は「生命主義川柳」を経て、レーニンの「何をなすべきか」を模したであろう「僕らは何を為すべきや」という評論で「社会主義派川柳」に拠ることを宣言します。時に一八歳でした。
 その一二が本格的に「プロレタリヤ川柳」を標榜したのは一九二八年五月、柳誌「氷原」に「生命派の陣営に与ふ」という評論を発表した一九歳の時です。「別題ーブルジョア神秘主義川柳史観を克服ープロレタリヤ川柳の無神論的立場を明瞭にするの一文」という副題が付けられていました。別の評論では「新興川柳はいづこへー直ちに答へる。無産階級ー。来るべき新時代を創造するものは実にこのプロレタリア階級であるからである」とも書いています。
 この間、一二は家業の不振により大阪に出て、四貫島の町工場で重労働に耐える経験を積みました。また、「社会主義派川柳」を唱えていた森田一二という先輩柳人の感化も受け、東京に出て川柳の革新運動に尽くしていた井上剣花坊やその夫人信子、娘鶴子等とも親しくつきあう一方、無産者新聞社の仕事を手伝ったりしていました。
 一二が帰郷したのは二八年二月ですが、あの「三・一五大弾圧」の直後、三月二五日に全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成されています。一二は旬日をおかず「ナップ高松支部」を結成し、五月に「プロレタリア川柳」の旗を掲げたのです。
喜多一二「抹消」の事情は…

一二は二八年七月に「無産川柳の本質は既に出来上がっている。ある特殊な事情よりして、僕は本稿を最後にして、喜多一二の名を新興川柳界より抹消しなければならない」と書きました。「抹消」を要する「特殊な事情」とは何だったのでしょう。一二はこの頃、伯父の一家から「離籍」を考え、母に強くたしなめられたとされています。一見「恩知らず」と思われる「離籍」の決意は名実ともにプロレタリア(文化・芸術)運動に身を投ずる決意を固めた上で、伯父や兄弟達に迫害の累が及ばないよう配慮した結果だったのではないでしょうか。以後、川柳界から喜多一二の名は消え、鶴彬が登場します。大勢の見るところ鶴彬は日本共産党の「党員ではなかった」ようです。しかし、入党の呼びかけ(勧告)があればいつでもこれに応える準備は整っていたのではないでしょうか。これが果たせなかったのは、徴兵された軍の中で反戦的な言動、無産者新聞配布などで重営倉に放り込まれ(三〇年)、大阪の衛戌監獄に投獄(三一年)され、最後には「手と足をもいだ丸太にしてかへし」など六句が「治安維持法違反」として獄につながれたうえ、不審な病死(三八年・二九歳)に至るという転変の結果、その機会が失われたことによるものでしょう。