<   2009年 05月 ( 8 )   > この月の画像一覧

 「西行絵巻 ー 物好きの深読み」の感想を聞くと、内容には触れず「バックが暗くて読みにくい!」という人あり。プラネタリウムが好きで選んだスキンだったが、内心自分でもそう思ってはいた…。危惧はあるのだが…。思い切ってスキンの入れ替えをしてみた。案の定、大きな文字で書いたところの体裁が狂ってしまった。取りあえずの手直しだけはしたが、時間をくった。
 でも、まぁ、読みやすくはなった。これでいいことにするか…。
 読み直したり、眺めなおしたりして見ると、段落の一文字が下がっていないところが見苦しい…など、いろいろ気がかりなところもある。そのうち、手入れをするかな?
 気がかりなのは、家のPCはMacのSafari、事務所に置いているのはMacのOS9で、どんなことになっているのか?明日、出勤して見なければわからないことだが…。まっ、いいか…。
 もう、明日からは6月なんだなぁ…!
 5月はあっというまに終わる…。
第九首 嘆けとて


嘆けとて月やは物を思はする
    かこち顔なるわが涙かな


 今回は百人一首にも採られていてあまりにも有名な歌なので、気ままな解釈をほどこす余地はほとんどない。そこで「評解小倉百人一首」(京都書房刊)という古びた小冊子から「歌意」を引いてみよう。
 「嘆き悲しめと言って、月は、わたしに、あれこれ恋の物思いをさせるのだろうか、いや、そうではない。(それなのに、)月にかこつけがましくこぼれ落ちるわたしの涙であることよ」とある。ずばり「恋の歌」と断定するのは詞書きに<月前恋(げつぜんのこい)といへる心をよめる>とあるからである。場は<御裳濯川(みもすそがわ)歌合>ということだ。
 冊子にはさらに「主旨」として「月をながめても涙がこぼれるほどの、恋の相手のつめたさに対する恨めしい気持ちと嘆き」とある。
 この冊子にはさらにさらに「表現と鑑賞」も書かれている。長くなるが引用してみる。
 「古人は、月は物思わせるものだという。けれども、この悲しみは月のせいではないと知りつつ、『なげけとて月やは物を思わする』と、なお自分の心に反問し、確かめてみないではいられない心情である。悲しみながらも、無情なその人を恨みきれずに、『かこち顔なるわが涙かな』と、自己の愚かさを嘆く風情に表現する」とある。

嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな

 西行にとって、いや佐藤義清にとって恋の相手が待賢門院璋子であることは疑いない。だが「恋の相手のつめたさ」、「無情なその人を恨みきれず」とはどういうことなのか。
 思い起こされるのは白河院の愛妾であり、鳥羽院の中宮でもあった璋子と懇ろな仲になったとき、「帝に発覚すればどうする」と迫られたとか、「『あこぎ』の歌を読みかけられて失恋した」などと伝えられていることだ。「あこぎ」とは古語辞典によれば「阿漕」と書き、「物事がたび重なること。ずうずうしいこと」などとある。西行は発覚をおそれ、難を逃れようとして出家したのだった。とすると西行は振られたのか、弄ばれたのか。いずれにせよ、西行は長く璋子への未練、都への未練を断ちかねたのであろう。まさに「自己の愚かさを嘆く風情」なのだ。
 先ほどの冊子は「この一首、題詠の恋歌ではあるが、西行の『人間』への人恋しさの心情さえ感じさせる」と「鑑賞」を結んでいる。

b0142158_15261413.jpg
b0142158_1526361.jpg

b0142158_1532124.jpg

☆ 写真 ↑万葉仮名のカルタ
      左から読む
     ←石碑 右から読む
☆ 石川河川公園「西行絵巻」より
第八首 さびしさに


さびしさに堪えたる人のまたもあれな
        庵ならべむ冬の山里


 手持ちの古語辞典では「(この山里の)寂しさにじっと耐えている人が、(自分のほかに)もう一人あってほしいなぁ。草庵(そうあん)を並べて住もう、この冬の山里に」と訳されている。この後に「そうすれば、この寒さもきっとしのぎやすいだろう…」と意訳をくわえる人もいる。
 この「山里」はやはり吉野か。「奥千本の谷間には西行が3年ほど侘び住まいをした、小さな庵が残されています」という人がいる。庵が本物かどうかは知らないが、西行がこの山里に滞在したことは間違いない。後世、西行を師と仰ぎ、足跡を訪ねて旅を重ね「奥の細道」をものにした松尾芭蕉はこの吉野にも足を運んでいる。
 さて、古語辞典には「堪えたる人」の「たる」は完了(存続)の助動詞「たり」の連体形とある。とすれば、単に「がまん」し、「耐えている」だけではなくそれ相応に耐え抜く力、言ってみれば「悟り」の境地に立つことのできている人、ということになろう。また「あれな」の「な」は詠嘆の助詞とある。「あればなぁ」つまり「おられればなぁ」ということになる。
 気になるのは「(自分のほかに)もう一人」と訳されていることだ。他の解釈などをみると「一人」と限定した注釈はあまり見あたらないのだが…。そのカギは「またもあれな」の「またも」というところに隠されているようだ。「また」は普通には「同じように、やはり」などの意味で使われるが、「別に、ほかに」という意味で「一回、一度、一人」に限定して使われることもある。そして「も」には色々な用法があるが、「せめて〜だけでも」とか「〜なりとも」という仮定希望の意味、用法がある。そうすると「もう一人あってほしいな」という解釈が成立するのである。そもそも、「さびしさに堪えたる人」がそんなにたくさん居るわけはないのだ。

さびしさに堪えたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里

 ところで、今まであまり気にもとめずに読み飛ばしていたことだが、広辞苑の短い解説に西行が「述懐歌にすぐれ…」とある。今後、読み進む幾つかの歌にも典型的な「述懐」の歌が出てくる。その「述懐」には、自分を省みてその凡俗ぶりや道を極めきれない、悟りきれないことへの自嘲と言わぬまでも、照れ、苦笑いするかのような歌がある。
 この歌もその一つのようだ。妻子も地位も捨て、世俗を断って、出家、漂泊の決意をしたはずの自分が、同じ寂しさに耐え、一緒に庵を並べてくれる人を求めている。孤独に耐えきれず、寂寥感に浸る己へのかすかな羞じらい、自省・自嘲の響きがこもる歌だ。
友人からメールが来た!
オダサク狂(教?)の友人である。
オダサクとは…? 織田作之助!
「夫婦善哉」や「土曜夫人」をものした作家である。
「オダサククラブ」などを立ち上げて、本業もそこそこに活動している。
その友人が「我々アラカン世代は…」などと、書いている。
ん?
「アラカン世代…?」
あっ! そうか!
嵐寛寿郎(アラカン)の「鞍馬天狗」を見て育った世代のことだな…!
それにしても、時代がかった表現をするもんだなぁ…!
念のために、ネットで確認しておこう…!
えっ!
全然ちがうじゃないか!
「アラフォー」は知ってたけど、「アラカン」というのもあるのか…!
「アラウンド還暦!」ですと…!
おい!おい!
いいトシこいて、若者コトバ使うなよ…!
テメエは高校の国語の教師なんだろうが…!
 
アラカン世代…は時代についていくのにふうふう…言っておる…! 

☆クレームがありました!
 曰く「ボクは国語の教師じゃないぞ!社会科だぞ!」
 大変失礼いたしました! m(__)m
                                     m(__)m 敬白
第七首 難波の春は夢


津の国の難波の春は夢なれや
     蘆の枯葉に風わたるなり


 手近な解説には「花が咲き鳥が飛び交った難波の美しい春は夢だったのか、今は蘆の枯葉の間をただ風が吹き抜けていくだけだ」というのがある。そんなところだろう。
 「難波の春は夢」、夢から醒めて現実を見ると「蘆の枯葉に風わたる」という無常。ここに「わび」、「さび」を見る人は多い。死生観を背景にした美学だというのである。
 「津の国」は津国とも書き、「何(なに)、名(な)などにかかり、ここでは「難波(なにわ)」にかかっている。ほかに「長柄(ながら)、昆野(こや)、御津(みつ)」などの類音にかかるという。ところで「津の国」は摂津の国(せっつのくに)の正名だとする解説があった。これには少し説明がいるだろう。wikipediaには律令体制が整い始める7世紀に設置されたのが「津国(つのくに)」で、その後(和銅6年、713年)「摂津国」と改称されたが、引き続いて「つのくに」と呼んだ。後に漢字にしたがって「せっつのくに」と読むように変化したと説明されている。領域には現在の大阪市や北摂地域、堺市の一部、兵庫県の阪神地域や神戸市の須磨区以東が含まれる。
 興味深く思えるのは短歌・文学の面からこの作品を鑑賞する人には、「難波」を「難波津」つまり干潟ととらえ、春には海上に霞がたちこめ、花が咲き乱れ、蘆の若葉が萌え広がっていたと解する人が多い。もちろんその解釈でいいのだろう。

津の国の難波の春は夢なれや蘆の枯葉に風わたるなり

 いずれにせよこの歌は深読みするような余地は乏しい。そこを西行流の「型破り」からはずれた作品だと評する人もあるくらいだ。そこで、深読みではなく、2〜3のことを考えておきたい。
先ず、「難波」のことである。先に述べたように文学系の鑑賞者は「難波津」ととらえるのが常のようだが、歴史系の人たちは「都は津の国難波の宮におはしませり」などの文をひいて「難波の宮」を念頭におくことが多いようだ。こんな一文も目にした。「大阪は平城京以前、難波の宮があった地で、古代の記憶に繋がる古い古い都なのです」。「中世の頃。大坂は昔日の面影なく、すっかり寂れてしまいました。西行法師は『なにはの宮』の華やかなりし昔を偲んで…、無常観を交えて(この歌を)詠んでいます」というのである。物好きとしてはこちらの解釈の方が馴染みやすい気がする。
 なお、「春なれや」の「や」について「詠嘆ととる説が多いが、そうなると『なれ』が解けない。疑問か反語のどちらかだろうと主張する」説があるそうだ。また「風わたるなり」の「なり」は「推定の助動詞です」という人もある。そうすると「津の国の難波の春は夢だったのだろうか。夢だったわけではないだろうが、枯れた芦原に冬の風が吹き渡っていく音が聞こえるようだなぁ!」ということになる。栄華をきわめた難波の宮跡に木枯らしが吹き渡ってゆく。
 西行は花鳥風月によりつつ、史実の無常、寂寥を詠んでいたのではないか。
 夕べ、息子夫婦が突然帰ってきた!
 大阪でのライブが続いているのは知っていたが、
 グループで行動しているので、例年は帰ってこない。
 今年も、帰れないだろうと思っていたが、 突然、少しだけ自由な時間がとれたらしい。
 ケータイに連絡が入ったので、早退してきた。
 聞いてみると、交通費やギャラが少しは入っているようだ。
 彼女は神田の「がらんどう」という古本屋の店主!だが、 お母さん(社長!)に店番を頼んでついてきている。
 景気が悪くて、まともな収入も危うい二人なので心配していた…!
 でも、結構明るい…! 若さかなぁ…!
 スキヤキをつつきながら、「こんなに美味い肉は久しぶりや!」
 「家で食べる肉は固いもんなぁ…」なんて言ってる。
 息子は親友たちにも会っていきたい風情だったが、 翌朝、8時集合・出発で、広島でのライブに向かうとのことで、 わが家には泊まらず、早々に今夜の宿に向かっていった。
 息子の「本業?」の仕事は激減、彼女の店も売り上げがた落ち…!どんな暮らし向きになっているのか、心配しきりなのだが、 取りあえず、元気そうな二人の顔が見れたので、 短くて、もの足りない気もしたが、嬉しい時間を過ごせた。
 GWの全期間を通じて、一番嬉しい時間だった。

万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た(バンザイ)

手と足をもいだ丸太にしてかへし

胎内の動き知るころ骨がつき(コツ)

召集兵土産待つ子を夢にみる

軍神の像の真下の失業者

屍のゐないニュース映画で勇ましい(シカバネ)

高梁の実りへ戦車と靴の鋲 (コウリャン)(ビョウ)

銃剣で奪った美田の移民村

ざん壕で読む妹を売る手紙

出征のあとに食へない老夫婦

タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう (ヨ)(フ)


 鶴彬(ツル アキラ)の断片に初めて接したのは20代の半ばではなかったか。時代を撲つ川柳人の作品に衝撃を受けた。もう40年になるのかと思えば感慨深い。とは言え、この号を何と読むのかも知らず、カクリンという号かと思ったりしていた。本名がわかってからも喜多一二はキタイチジと読むのかと思っていた。カツジと読むと知ったのはずっと後のことだ。
 曲がりなりにも、ほぼ全体像を掴めたのは鶴彬全集(反戦柳人の全貌・一叩人編・たいまつ社刊)に接してからのことだ。この一文を書くために本棚をひっくり返すと出てきた。77年9月14日、初版第1刷発行とある。もう32年になるのか。定価7000円とある。しがない身には大枚だ。
 その鶴彬が今、新たに脚光を浴び、再認識されている。昨年には大阪で記念の碑が建てられた。小説もできた。「小説 鶴彬ー暁を抱いて」(吉橋通夫著・新日本出版)である。早速、購入して読んだ。改めて、多喜二に並ぶべき川柳人との思いを強くした。映画「鶴彬ーこころの軌跡」も全国上映が近いという。ネットに公式サイトも開かれている(http://tsuruakira.jp/)。
 時あたかも昭和の日、メーデー、憲法記念日、みどりの日、子どもの日と続くゴールデンウィーク。今日の日本の現状を憂い、憤り、来し方に先人の足跡を学び、行く方を開く決意を新たにする日々が続く。このブログに「今日から明日へあさってへ」と名づけた秘かな思いもそこにある。
 冒頭に掲げた鶴彬作品をもう一度じっくり味わいたい。
第六首 きりぎりす


きりぎりす夜寒に秋のなるままに
      弱るか声の遠ざかりゆく


 「きりぎりす」は古来「コオロギ」のこと。今で言う「キリギリス」は「はたおり」と呼ばれた。手元の百科事典をみると「コオロギ」は温・熱帯に多く、日本には30種以上。普通、成虫は晩夏〜秋に現れるとあり、「キリギリス」は日本特産種。7〜10月に現れるとある。日本の晩夏、秋には「コオロギ」の方がふさわしい。ただ、「キリギリス」が日本特産種というのは意外で外来種のような感じがする。ともあれ、この歌の「きりぎりす」は「コオロギ」なのだ。「夜寒(よさむ)」とは、秋が深くなって夜の寒さの感じられること。また、その寒さ。または、その季節のことだ。
 「こおろぎよ、夜寒になり秋の深まりにつれて弱っていくのか、日に日に鳴き声が弱まり、遠ざかって行くよ」というほどの意味であろう。春のもの憂い思いの「春愁」にたいし、秋のもの寂しい思いを「秋思」と言うが、この歌は正に「秋思」の歌そのものと言えよう。「実感に裏打ちされたいい歌だ」と激賞する人もいれば、「格別に珍しいことは言っていないし、観察が鋭いわけでもない」というむきもある。ただし、その人も「夜寒に秋の」、「弱るか声の」とそれぞれ語順が前後していることを「リズムのある表現」と評してはいる。
 余談だが、「詩経」の「国風・七月」に蟋蟀(きりぎりす)について次のような記述があるという。「七月野に在り、八月宇(う=軒)に在り、九月戸(こ=家)に在り、十月蟋蟀我が牀下(しょうか=寝台の下)に入る」。野原から人家に近づき、さらには屋内に入ってくるという。人に身を寄せ近づいてくるのに、「遠ざかりゆく」とする表現にひとしおの哀れを読むべきか。

きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく

 さて、この歌をどう読むか?実は悩ましいのである。そもそも、西行がどの歌をいつ頃詠んだのか、特定しにくい歌が多い。この歌も然りで、「晩年の作か」という人もあるし、西行絵物語には最初の奥州への旅の帰路を書いたくだりに、それと思わせる記述がある。石川河川公園の陶板の絵巻が年を追って展示されていることを考えると比較的若い頃の作とも考えられる。
 ひるがえって、西行の出家が保延6年(1140年)であり、璋子の落飾(剃髪・仏門に帰依)は康治元年(1142年)、逝去は久安元年8月22日(1145年9月10日)のことだった。西行の出家の直後から、璋子は鳥羽院に疎まれ権勢を見る間に失い、失意のうちに没したのである。
 ところで、西行の東国への旅については康治二年(1143年)26歳説や30歳までとする説がある。待賢門院崩御後に旅に出る気運になったろうと推定し、28歳以後のこととする説もある。出家後、都の周辺からから伊勢へ赴き、しばらく滞留して東国へ旅立ったと考えられるからだ。
 物好きは深読みというより戯言に属するかも知れないが、失意の璋子を思いやり、きりぎりすに璋子の晩年を仮託した、他の作品には見られない、その意味で稀有な作品としてこの歌を読んだ。
 若かりし頃は妖艶馥郁、野にあるように奔放に生きた璋子。時は流れ、凋落の秋を迎え、その名声たるやどんどん衰え、ついには遠ざかり、聞こえなくなったしまったよ。やるせない身に追い込まれた璋子。璋子への追慕、璋子を追いやった者ども、都。世事一切からの訣別の時を悟った西行のはかない歌ではないのか。