<   2009年 09月 ( 10 )   > この月の画像一覧

西行絵巻 異譚 ①

謡曲・松山天狗 雨月物語など

 西行が1168年(仁安3年)四国修行の旅に出、讃岐の国で崇徳院の廟に参り、弘法大師の足跡を訪ねたことは本編でも述べた。これには怪異な物語が伝えられる。
 一つは「謡曲 松山天狗」であり、もう一つは「雨月物語 巻一 白峯」である。形式は異なるが筋書きはほぼ同じと言える。原型は西行の「新院御墓讃州白峯之事」という墓参の記録にあるようだが、くわえて「保元物語」のおどろおどろしい表現を援用した、文字通り怨念に満ちた怪異な物語だ。
 「保元物語」は鎌倉時代初期の軍記物とされるが、その成立については諸説があるようだ。永仁5年(1297年)成立の『普通唱導集』に「平治・保元・平家の物語」が琵琶法師によって語られたと記されているという。これが伝承(文学)としての先駆けかも知れない。
 「謡曲 松山天狗」が世に出たのは崇徳没後約270年後、足利六代将軍義教(よしのり)の時代(在位1429~1441年)、世阿弥の作ともいうが、「分からない」というのが真相のようだ。
 「雨月物語」は上田秋成の手になり、五巻五冊。明和5年(1768年)序、安永5年(1776年)刊。怪異小説九篇から成る。あれこれの資料を消化して創作したのだろう。秋成は「雨月物語」を剪枝畸人というペンネームで発表している。なんと読むのか。「剪枝」は「せんし」と読み、文字通りでは「枝を切る」ことだが、苗字としては「きりえ(だ)」と読ませるのかも知れない。「畸人」は「奇人」のこと。とすれば「きりえきじん」とでも読むのか。「畸」は「漢字源」(学研)に「井田として区切ることのできないはしたの耕地。はんぱな数のこと。人とそりがあわない、孤立した、風変わりなさま」とある。ちなみに「剪(せん)」の項には〈難読〉という注釈があり「剪前」を「もちまえ」と読むとある。もし、秋成が「もちまえの奇人」を気取っていたとすれば、面白い。
 さて次回から「保元物語」、「謡曲 松山天狗」、「雨月物語 白峯」などの断片を拾いながら、この筋書きを追ってみよう。

 
第十八首 ねがはくは

ねがはくは花の下にて春死なむ
     そのきさらぎの望月のころ


 この歌は余りにも有名で「深読み」の余地などほとんどない。少しだけ注釈をくわえておこう。
 まず解である。この際、「全訳古語辞典」の説くところを全文引用してみたい。「(私の)願うことは、桜の花の下で、春に死にたいものだ。その陰暦2月の満月のころに。[参考]桜の花の下で死にたいと願うのは、桜を愛し、桜の歌を多く詠んだ作者としては、当然の願望であっただろう。しかし一方ではまた僧として、陰暦2月15日の釈迦入滅の日に臨終を迎えたいと願う。作者はその願いどおりに文治6年(1190年)2月16日に没した。第4句(そのきさらぎのー筆者注)は『その』が指示するものを『春』とみる解と、言外の釈迦入滅をさすとみる解とにわかれている」とある。西行の没は73歳、819年前であったわけだ。
 この歌を「辞世の句」と紹介する例がまま見られるが「死にぎわに残す詩歌」という意味では正確ではない。その10年も前につくられていた歌だから。当時としては長寿と言っても良い60歳をこえるほど生きたことは、西行にとっては「思いの外」のことだったろう。その感慨をこめて「もういつ死んでも良い」、今流に言えば「ポックリ逝きたい」という心境で「願わくば…」と詠んだものか。
 この歌には西行が好んだ「花」、「月」が詠み込まれている。「望月」とは「陰暦十五夜の満月」だ。「花」に寄せる思いと「月」に寄せる思いは対照的だが、「美」の極みではある。
 さて、「きさらぎ(如月・二月)」の花がどうして「梅」ではなく「桜」なのか。旧暦では年によって月と季節感が微妙にずれる。3〜5年のサイクルで「きさらぎの望月の頃」が新暦の4月にかかるらしい。西行が亡くなったのは新暦では3月29日にあたるというわけだ。
 西行は望みどおりに旧暦2月16日、釈迦入滅の翌日に亡くなった。これが当時に於いても、後世に於いても強い印象を与え、西行の名をさらに高めたのである。

☆ この歌で石川河川公園の「西行絵巻」は終わる。なにやらホッとした気分ではあるが折角のことなのでもう少し続きを書くつもりだ。題して「西行異譚」。長さは分からないが2つ3つのテーマとしたい。お楽しみあれ…。
 
 

 
第十七首 わりなしや

わりなしや氷る筧の水ゆえに
    思ひ捨ててし春の待たるる


 大役を果たして奥州平泉から帰った西行は1187年(文治3年)一旦嵯峨に庵を構えるが、'89年には河内弘川寺に移る。当時の座主空寂上人を慕ったものと伝えられる。空寂はその前年に後鳥羽天皇の病回復を祈願した功により奥の院「善成寺」を建て、勅額を賜っていた。弘川寺は現在の大阪府南河内郡河南町弘川にある。開基は665年(天智天皇4年)役行者によると伝えられ、677年には功あって勅願寺となっている。天平時代には行基も修行し、弘法大師が中興したという。由緒ある寺なわけだ。戦国時代、畠山兄弟の争いによって寺領は無惨に荒らされ、堂塔はことごとく焼失したため、今は山間にある小さな寺のように見える。が、残されている図面などによると豪華絢爛、偉容を誇っていたことがわかる。先にあげた「善成寺」の焼けこげた扁額も残る。宝物館もあるので、機会のある方にはぜひ一度訪問されるとよい。
 石川河川公園の「西行絵巻」には弘川寺におもむく西行の陶板画が2枚あるので紹介しておく。

b0142158_13173797.jpg⇦この景は確かに石川のほとりと見える


  わりなしや氷る筧の水ゆえに思ひ捨ててし春の待たるる 

 さて、例によって古語辞典をひく。「わりなし」とは「理(ことわり)なし」ということで「道理に合わない、無理である、めちゃくちゃだ、分別がない。たえがたい、苦しい、つらい。しかたがない、やむを得ない、どうにもならない。殊のほかである、ひととおりでない、程度がはなはだしい。格別すぐれている、すばらしい」など、いくつもの用法が示されている。
 「筧(かけひ)」は木や竹でつくった樋(とい)のこと。
 「ゆえ」は「ゆゑ」であり「原因、理由、事情、わけ。趣、風情。由緒、来歴、身分。故障、さしつかえ。縁故、ゆかり」などとある。また「(体言または用言の連体形の下について)ァ順接的に原因・理由を表す。…のために、…が原因で、…によって。イ逆説的に原因・理由を表す。…なのに、…にかかわらず。…のに」と解説。さらに〔類語パネル〕という項がおこされ「ゆゑ…物事の本質的な原因。人や物については、一流の素性・教養・風情をいう。よし(由)…「寄す=関係づける」の意で、人や物については、一流とまではいかない素性・教養・風情をいう」とある。
 「思ひ捨つ」は「(関心がないとして)見捨てる、見はなす」こととされる。
 この歌は「筧の水が氷るほどの寒さだからといって、自分が捨ててきたはずの俗世間の春を待っているなんて道理にあわないことだのぅ」と読める。俗世への未練、捨ててきたはずの煩悩を超えきれぬ自分への内省、羞じらい、戸惑いが感じられる。「冬景色に心を奪われながらも、寒冷に身を置く自分に春が早くこないかとは何事だと、弱い己の心を嘆じている」と鑑賞する人もある。
 形象性、表現の深さという点では本歌には及ばないと思うが、歌意のよく似た歌に
 世の中を捨てて捨て得ぬ心地して都離れぬわが身なりけり
 などという歌がある。こういう心境を隠さないところに西行の率直さがある。法師であって上人ではない所以だろう。筆者は、深読みしつつ共感する。

b0142158_131851.jpg「河内弘川に庵を結ぶ」との添え書き。後景は二上山   ⇨


☆ 但し、この和歌の配列の順序について、筆者には解ききれない疑問が一つある。
 この歌は、確かに石川河川公園の「西行絵巻」では第十七首めに配列されている。これまでの歌が少々疑問はありつつも、ほぼ西行の人生の年代順に配置されているものと解することができた。今回も、その立場で西行晩年の歌と解して上記の「読み」を記した。しかし、これには少し疑義が残る。
 なぜなら、この歌の詞書きには「世をのがれて鞍馬の奥に侍りけるに、かけひの氷りて水までこ(来)ざりけるに、春になるまではかく侍るなりけりと申しけるを聞きてよめる」とあるからだ。西行が「世をのがれて鞍馬の奥に」潜んだのは出家して間もない頃のことだ。25歳前後の若い頃に「俗世の春が恋しい」と詠んだのである。これが「定説」だ。「鞍馬の奥」がどこか「不明」であり、「必ずしも鞍馬寺をさしているわけではない」というのも「定説」のようだが、それでも歌自体は青年期のものとされる。因みに、西行の生涯をたどった辻邦生著「西行花伝」(新潮文庫)では本歌は全21帖のうち「七の帖」つまり西行若かりし頃の歌として登場する。
 筆者は混乱した。その間の事情を明らかにする力がない。ネットを探し回ってみると、朧気ながらこういうことかなと思えるブログに出会った。千田孝之という人の「ごまめの歯軋り」というブログに「桑原博史訳注『西行物語』」(講談社学術文庫)の紹介がある。桑原氏がこの著書のなかでとりあげた和歌118首が番号つきで紹介されている。本歌「わりなしや…」は111番目、ほぼ終わりの方に配列されている。石川河川公園の「西行絵巻・第十八首(最終)」の「願はくば…」は117番目の歌となっている。つまり本歌を西行最晩年の歌と思わせる配列なのだ。
 千田氏は言う。「西行の生涯については『西行花伝』に詳しい。… まだ西行年譜としては正確ではないだろうか」。「『西行物語』のほうは…年代の順も無視されて、読者の混乱を与える要因になっている。… 筋を追っても仕方がないので歌物語として読むといい」。
 辻氏は作家、桑原氏は中世文学史を専攻する学者、配列の順にはそれぞれの考えがあってのことだろう。この公園の歌を選んだ人は桑原氏の説にしたがったものか。はたまた、別の考えがあるものなのか。疑問は解けない。確かめる機会はあるのだろうか…。
 
 

 
この8月に65歳になった。
今風にいえば「前期高齢者」というわけか…!
確かに若い頃に感じていた「老人」とは違うような気がする。
しかし、この8月はエラかった。
ムリがきかない…。
まだ疲れも残るような感じだ。
ふと、考える!

高度成長の時代に「敬老精神」が衰えたと取り沙汰され
軽老!という言葉が流行った。

自公政治10年のおかげで、まさに
荊老!の時代になってしまった。

いつの日にか、必ず
慶老!の時代をつくりださねば…!

そんなことを考えながら、SW(シルバーウィーク)を過ごす…。
第十六首 富士のけぶり ②

風になびく富士のけぶりの空に消えて
     行方も知らぬわが思ひかな


 第十七首に進もうとしたが、昨日の文面ではもう一つすっきりしない。なぜだろうか。色々思案してみた。多くの識者が「悟り、澄明、平安」などと解しておられるのに、物好きは「これを怪しむ」とした。「いい知れない哀感」、「嘆き」、つまり「自嘆」に注目したのである。これは「妥当」なことなのか。自問はとどまらない。いわば門外漢の悲しさである。そこでもう一度、角度をかえて「深読み」に及びたい。この一文がご教示いただける方の目に触れんことを願う。

 この歌を読んで雄大さを感じるのは誰しものことだろう。「富士の高嶺からもくもくと噴煙が立ち上る。そして広大な蒼空に吸い込まれ、やがて消えてゆく」という情景だ。さて「七十の齢を数えるわが身は様々に転変した。その間に嘆き、悲しみ、怒りに満ちたわが思いはどこへ行くのか。あのけぶりのように広大なこの宇宙に呑み込まれてゆくのかなぁ。行方は知れない」と読めば、「澄明で平安な世界に、西行の心に同化していこうとしていた、ないしは同化していた」(安田章生氏)ということになる。このように雄大に受けとめることは美しい。その読み方は「けぶりが空に消える」場面に注目している点に共通性がある。「空」に眼がいっている。
 では「けぶり」に眼がゆくとどうだろう。吸い込まれても吸い込まれても、絶えることなくもくもくと「けぶり」が湧き続けている。そのとどまるところなくわき出てくる「けぶり」のように「わが思ひ」も募り続ける。「七十の齢を数えてもなお断ち切りがたい想念、煩悩がわが身、わが思いにひそんでいる」ことを冷徹に注視することになる。情景、風情ではなく、心象を仮託している様を読むことになる。
 昨日の稿でこの歌の訳として「私の思いはどこへ行くのだろう。行方も知れぬわが思いであることよ」と書いた。大方の解釈にしたがって書いたつもりだ。しかし、再度探してみても「行方も知らぬ」と「行方も知れぬ」との違いに触れたものには行き当たらなかった。だが、ここに「謎」が潜んでいるのではないか、と思ったのである。
 「行方」は辞典によれば「行く方」が正しく「ゆくへ」とも「ゆくかた」とも音し、「進んで行くさき、行くべき所」とある。「例解古語辞典」には「行く方(ゆくへ)」の項に「行く方も知らず」が例示してあり、「行くべき方角もわからない、果てもしれない」とある。「知る」についていえば、この歌では「知らぬ」となっているのであり、「知れぬ」となってはいないことに注意しておきたい。
 となれば「行方も知らぬわが思ひかな」は、「わが思いは行くべき所を知らない。果てしもないわが思いであることよ」と解することが妥当となるのではないか。

  風になびく富士のけぶりの空に消えて行方も知らぬわが思ひかな

 物好きは再度、解を改めたい。
 「富士の煙が風にたなびき空に消えてゆく。その後から後から煙が湧いてくる。湧いては消え、消えては湧く。時には火のように熱くなる私の思いもこの煙のように決して尽きない。煙は空に消えてゆくけれど私の思いはどこに行けばよいのか。行くべき所を知らない、わからない、果てしないこの思いであることよ」
 西行の歌が花鳥風月を詠んで、時に雄大、時に細密、自然詠の頂点をなすことはつとに知られている。だが、その作風について「述懐歌をよくする」と評されていることに、率直な驚きと共感を覚えたことは前に書いた。西行の作品群に情景の美しさを読み取るだけでなく、そこに込められた感慨・述懐を読み取ることが大事だと痛感する。
 詠ずる音の美しさ、浮かび上がる情景、情味あふれる感慨。それが重なり合う和音、二重奏、三重奏にもなって響きあう。そのすべてに眼をこらし、耳をすませて味わいたい。
第十六首 富士のけぶり

風になびく富士のけぶりの空に消えて
     行方も知らぬわが思ひかな


 富士とは、もちろん富士山のことだ。古来、不二とも不尽とも書く。不死という例もある。日本のふる里ともいうべき霊峰である。その富士に「けぶり」が立っている。筆者が子どもの頃は「活火山、休火山、死火山」という分類があって、富士は「休火山」だと教えられてきた。しかし、最近では学術的になのか、行政的になのか、このような分類はしていないという。
 ともあれ、西行が富士を眺めていたときには「けぶり」が立っていた。調べてみると、富士の火山活動は781年から1707年まで十数回の記録があるらしい。そのうち、ひときわ有名なのが800年の大噴火(延暦19年・平安時代)、864年の大噴火(貞観6年・平安時代)、1707年の大噴火(宝永四年・江戸時代)ということだ。なかでも1707年の大噴火は噴火史上最大といわれ、江戸に住んでいた新井白石の日記に「昼でも行灯をつけなければならないほど空が暗くなった」とあるという。その後302年、富士は眠っているのか、休んでいるのか。
 西行は813年前、1186年の夏「けぶり立つ富士」を眺めていた。その心境やいかに。
 「富士山の噴煙が風にたなびき空に消えてゆく。つけても決して消えない、時には火のように熱くなる私の思いはどこへ行くのだろう。行方も知れぬわが思いであることよ」と鑑賞できる。
 「火のように熱くなる」としたのは「思ひ」の「ひ」には火山である富士の「火」と「自身の思いの熱さ」を「かけたもの」という説があるからだ。実際、西行はこの歌を「第一の自嘆歌(慈円の拾玉集)」と言っている。また、この歌の初出である「西行上人集」では「恋の部」に入っている、しかし「新古今集」では「雑歌の部」入っているという。どうやらこの歌も少しく難解、奥深い解釈の余地ある歌といえるようだ。
 もっとも、筆者も「明澄でなだらかな調べ… 自然と人生の完全な調和」(白州正子氏)、「澄明で平安な世界」(安田章生氏)「万感に満ちた西行の胸郭を解放」(宮柊二氏)、「広大無辺な宇宙のひろがり… ようやく悟った」(瀬戸内寂聴氏)などの考察を否定するつもりはさらさらない。が、西行自身が「自嘆歌」と言い、撰では「恋の部」や「雑歌の部」に入る歌とは何なのか。深読みの興趣がそそられるのだ。

 風になびく富士のけぶりの空に消えて行方も知らぬわが思ひかな

 「けぶり」とはもちろん「煙・烟」のことであるが、「全訳古語辞典」(旺文社)で真っ先に出てくるのは竹取物語「ふじの山」の引用で「(不死の薬を焼く)煙」とある。次が「火葬の煙、火葬、死ぬことのたとえ」である。さらに「飯をたくかまどの煙、転じてくらし」、その後に「(霞・水蒸気・新芽などが)煙のようにたなびいたり、立ち上ったり、かすんで見えたりするもの」が出てくる。最後は「地獄の業火の煙」である。この辞典にには「発展」という項があって「『煙』が人の死を象徴するものとされるようになったのは、仏教とともに火葬の風潮が一般化してからのことである」とか「文芸作品においてはしばしば、人の死をはっきりとは言わないで『煙』によって暗示することがある」などと説明されている。「例解古語辞典」(三省堂)の記述はごく一般的な「けむり」の説明から入っているが、後は同じようなものである。
 とすれば「富士のけぶり」を単に「富士山から噴煙が立ち上り風になびき空に消えていく」という自然の情景に感嘆し、その情景に西行が「同化」している、とだけ読むのは浅いのではないか。
 「富士のけぶり」と照応しているのは、不死、生と死、地獄の業火、それらにまつわる諸々の想念が込められた「わが思ひ」なのである。西行は生涯にわたって「わが心」、「わが身」、「わが思ひ」にこだわり続けてきた。ある人は「数奇心も道心も恋心も旅心も諸々含まれた名状し難い複雑な想念」と言っている。その「思ひ・想念」が「富士のけぶり」とともに昇華され、淡々たる悟り、澄明な境地に立ったと言えるのだろうか。物好きは怪しむのである。
 第十七首のところで見る事になるが、西行は未練も、悔いも、羞じらい・照れも抱えたまま七十歳という歳を迎えようとしている。が、老いたりといえどもまだ奥州平泉へ足を運ぶ情熱もある。邂逅した源頼朝に抵抗してみせる気骨も残っている。息苦しいほど生々しい情感、俗世への未練、鋭い世相観察のその総体を抱えている西行。「富士のけぶり」に見入る西行の姿は(石川河川公園の絵巻・陶板画にはないが)雄大な富士とは対照的に余りにもちっぽけに描かれている。その姿には隠遁、高踏、漂泊とはいささか異なる趣きがある。筆者はそこに西行のいい知れない哀感を読む。まさに自ら「自嘆歌」と称する嘆きの声が聞こえるようではないか。
8月の上旬から末まで、柄にもない多忙さでご無沙汰してしまいました。
このブログにも、あちこちからのメールなどにもたくさん失礼してしまいました。
友だちが減ってしまったような気がします。
この間、「政権交代」がとても注目され、昨日からは「新政権」が発足しました。
ボクのスタンスは「えぇもんはえぇ!あかんもんはあかん!あんじょうしいや!」という当たり前のスタンスですが、鳩山氏や岡田氏、菅氏、前原氏、小沢氏、etc、正直なところ「大丈夫かねぇ?」と批判的な思いも募ります。
庶民の票は集めたけれど、庶民の思いを集めたのかなぁ…?
今日の日本の現状は「政権を握った!」ということと「権力を握った!」ということにはとてつもない広がり、「ズレ」があるように思えてなりません。
目下のところ「財界にはっきりものが言えるか?」「アメリカにはっきりものが言えるか?」最大多数である中間層以下、「底辺」に本気で手を伸ばす政治に踏み出せるか?
夏の疲れが残ったまま、明日のことを考えてしまう!しんどいですねぇ…!
西行絵巻、中断のお詫びにかえて、鶴彬のこと「補遺」をアップします。
言ってみれば「お茶を濁す」わけですが、ご容赦を…!
みな様も ご自愛を… m(_ _)m  敬白
 
大勢の見るところ鶴彬は日本共産党の「党員ではなかった」ようです
一叩人氏は「金沢第七連隊赤化事件判決文」引用にあたって「党員であったと考えるのが自然」と述べ、角田通信(相被告人)の「入党推薦者であったと思われる」と書いています。
しかし、この判決文を良く読めば、鶴彬は当初「日本共産党のスローガンは大体に於いて全部之に共鳴すれども其中君主制度の撤廃なる一項目は我国の国情に照らして直に之に共鳴し難しとの旨を述べ」ていました。しかし判決は「弁疏すれども…私有財産の否認に賛成し居ると共に君主制度の撤廃をも希望し居るものなりと認定せられても亦已むことを得ざる旨の自供及予審官尋問調査中(の)供述記載あるに徴し之を認む」とあり、官憲が鶴彬を陥れていった経過が窺えます。
また、相被告人である角田通信について「浅学にして年少気鋭現社会制度の欠陥を痛切に感じたることなきは勿論共産主義の全貌に付深く研究検討するところなく僅に同僚より刺激を受け漫然同主義に感染共鳴し入党するに至りけるもの」と驚くほど軽くあしらい「懲役一年、執行猶予二年」と判決しているのです。鶴彬がこんなに軽率に軍隊内で「入党工作」をし、「推薦者」となるとは考えにくい話です。
さらに、元柳樽寺川柳会同人、勝目テル氏(柳名市来テル子)は「鶴さんは共産党員ではなかったが、石川県下ではナップで活躍していたようだ」と一叩人氏自身の取材に対して語っています。要するに「鶴彬党員説」は官憲側からの情報はあっても、党そのものや活動家周辺からの情報にはそれがないのです。
不審な病死(三八年・二九歳)に至る
昭和一三年九月一四日午後三時四〇分、東京市淀橋区柏木町(現在・新宿区北新宿四丁目六番一号)の東京市立豊多摩病院(伝染病院)にて没。
「鶴君が殺されたのは赤痢菌注射説もあるようですが、当時の官憲のしたことだから何を信用していいのか分かりません」(井上麟二氏・井上剣花坊氏長男)
「今日はおもひがけなく胸を刺されたやうな傷ましいことを聞いた。それは喜多氏の精神的な異状と言ふ最大不幸の報であった。自分は聞いた瞬間にアヽシマッタと心の中で叫んだ」(九月六日・井上信子氏日記)
喜多一二 — その出発と止揚の道筋
 一二がプロレタリア川柳の旗を高く掲げたことは、今日ではよく知られるようになってきました。しかし、一二が初めからプロレタリア川柳作家であったわけではありません。
● 一二のデビューの評論が「ネオロマンチストなれ」「よりよき生命詩人を生み出すか」と述べたように、一九一〇年代から二〇年代にかけて広がっていた大正デモクラシーとそれを反映してインテリ層や文化・芸術運動に広がっていたデカダンス(虚無・退廃)、ダダイズムの風潮、その傾向の色濃いものでした。
 一二は「貧しい頭の断層面」(二六年・「影像」三〇号・一七歳)という評論で、「私の詩と、人生との簡略な線を描いておく人生は虚無だ!」「私としては、虚無というものを、おそまつながらつかんだ自信を持っている」「あゝ私はしみじみ思う。老子をして今日にあらしめば、あるいはダダイストであったかも知れぬ、と」「詩即生活、生活即詩ではなく、時空を超越せる存在が詩である。私の詩である」「私達は虚無の太陽の前に立てる詩人でなくてはならぬ。私達は滅亡へ足を運ぶ。私の詩は滅ぶべき生命の殻だ。生命の記録だ。故に私は、常に私の過去の詩を捨てる。過去の詩は私の殻だからだ」などと書き、この前後、虚無的・ダダイスティックな川柳も幾つか創っています。
 この秋、一二は石川県を出て、大阪・四貫島の町工場で働くことになります。
● 一二が「虚無の殻を破る」と題する評論(二七年・「影像」三七号・一八歳)を書き、「生命主義」への到達を宣言したのは、その翌年でした。
「諸行無常 — 寂滅無為 — の境が深く先輩達の生命主義的な歩に結びついて来たことを痛感する」「虐げられ、惑はされ、欺かれ、あるいは悲しみ嘆き苦しみ、さては喜悦し讃美し躍動する複雑なる生命相を真実一路の白道に統一の直立を保たせつつ真と善と美とのともしび燃ゆる聖光なる松火をかざしつつ、ひたすら歩む姿こそ私の愛する姿である」
とはいえ、柳紙「氷原」での論争を通じて、一二の転換は徐々に始まっていました。
● 一二がレーニンの「何をなすべきか」を念頭に置いたのではないかと思わせる評論「僕らは何を為すべきや」が「川柳人」第八二号に掲載されたのは二七年(昭和二年)、一二、一八歳の時です。尊敬する先輩、森田一二に伴われ東京に赴き、井上剣花坊と接触、母の再婚先に寄寓している頃でした。一二は「最近の川柳界は明らかな二つの傾向に分裂した。その一つとは田中五呂八氏による生命主義派、も一つとは森田一二氏によって唱道されたる社会主義派のそれ」として、自らは「社会主義派」に拠ることを宣言したのです。
 「近代人道主義の巨匠レオ・トルストイは人生のための芸術を唱へた。…かのマルクスが唯物史観において示したとおり、いかなる芸術も当時の社会的経済的機構の影響なしで誕生し成長することはできない」「還元すれば○○○○(社会主義?共産主義?)の短詩として文壇よりも社会へと進出せねばなるまい。今日民衆の飢えているものは実は川柳の如き街頭の芸術であり、批判の芸術であるから」
● 一二が本格的に「プロレタリヤ川柳」を標榜したのは二八年(昭和三年)一九歳の時に発表した評論です。これは「氷原」二九号(五月一〇日発行)に掲載され、「生命派の陣営に与ふ」と題し、「別題—ブルジョア神秘主義川柳史観を克服—プロレタリヤ川柳の無神論的立場を明瞭にするの一文」という長い副題がつけられていました。内容は「プロローグ」「生命派を克服する無産派の理論展開」「搾取の道具としての神秘主義の正体」「エピローグ」という四章からなる本格的な論文といえるものです。
 その立場は、「僕はマルクス主義的無神論に立脚し、右の反動派の理論をいちいち検討し、そのブルジョア的正体を暴露して行き、我らプロレタリア川柳の序論ともいうべきものを展述したい」というもので、マルクスやエンゲルス、ローザルクセンブルグ、レーニンなどの言葉も引用されるなど、一二が基本的に無産派・マルクス主義・共産主義の立場に立とうとしていることがわかります。
 また、当時の論壇を中心に繰り広げられていたいわゆる「アナボル論争」について「ボルシェヴィズムとアナキズムの理論闘争の際、アナキズムの個人主義論に対して書かれた共産主義文学論」を擁護する見地を示しています。
● この評論に先だって、「川柳人」五月一日号に一二の「川柳の発生的意義と新興川柳の転換」という評論が掲載され、そこでは「新興川柳はいづこへー直ちに答へる。無産階級—。来るべき新時代を創造するものは実にこのプロレタリア階級であるからである」と述べていました。この評論は「川柳人新年号にのせて貰うつもりでいたところ、次々と延期され、とうとう五月号で、やっと発表してもらえた」とのことです。
●鶴彬はプロレタリア文学擁護の立場に立って川柳論を展開し、ほとんどすべてと言って良いほど各流派の主宰者と旺盛・過激に論戦を展開していました。まさに孤軍奮闘、「鶴彬孤塁を守る」の感さえあるほどです。それは当時の時代背景を考えるとき、高く評価されるべきものでしょう。しかし、そこには、やや機械的な「マルクス主義的論法」があり、かなり「打撃的な批判」が展開されている点には、今日的な視点で正確な認識が必要だと思われます。
ここで詳述する暇はありませんが、当時の「プロレタリア文学・芸術運動」の「時代的制約」、言いかえると「機械的一面性」が色濃く反映しています。ナップやコップには川柳の部門・機構はなかったのですが、鶴彬の論調には他の芸術部門の運動体と同じような特質(長所と短所)があると言っても良いでしょう。
川柳を短詩型文学の位置に高め、
  「文質彬彬」たる境地を切り開く決意

川柳人は川柳を和歌や俳句と並ぶ「短詩型文学」の一形態と考えますが、広く世間を見ると必ずしもその地歩を確立しているとは言い難いようです。ですから、鶴彬は川柳の位置を高めるために並々ならぬ努力を払っています。その一、二をあげておきたいと思います。
●鶴彬は三六年(S一一年)・三月一五日発行の「蒼空」第四号に「古川柳から何を学ぶべきか」という評論を書き、「現在の新しい川柳家たちは、もっと古川柳を学ばねばならない」として、「…といふのは、古川柳のすべてではなく、その特殊な評釈的事項などではなく、その特にずばぬけた作品における川柳的現実探求の精神とその川柳的表現方法に就いてである」と述べています。幾つかの古川柳を例にあげて「特に諷刺的な現実認識とそれにふさわしい形象化」と特徴づけています。また、「即ち生きた現実を生きた矛盾の姿によってあらわすという川柳文学独自の諷刺的精神や表現方法が、これらの現実に太くたくましい脈動を与へてゐるのである。これは、川柳以外の短詩としての、短歌、俳句等のとうていなし得なかった特徴であろう」と書き、「ところでいま僕の思ふのは現在の新しい川柳がその高さをほこりながら、果たしてこの古川柳がもつ文学的完成を、その新しい仕事の上に創造しているかどうかといふことである」と述べています。
●同年六月「俳句性と川柳性」という評論で「俳句は自然を詠み、川柳は人事を扱ふ」という一般論を検討し、「いわゆる俳句が自然象徴詩として現れたことは、現実の生活葛藤をよそにして花鳥風月にたわむれていられる有閑層を地盤としていたことなのであるし、その反対に川柳が人事を諷刺せざるを得なかったといふのは、金銭や身分や愛欲の人間生活の矛盾のうづからぬけ出すことの出来なかった勤労層を土壌にしていたために外ならない」と振り返ります。しかし、これが「時代の移り変わりによって…さまざまに変革されてゆくことは、あたりまえ」で「人事諷刺の川柳から小ブルジョアインテリの懐疑や苦悩を反映した神秘川柳が生まれたり、自然象徴詩の俳句から、進歩的インテリや勤労者のイデオロギーをはらんだ現実俳句がとび出したりしても、少しも不思議ではなくかへって当然」と書きます。
「いわゆる俳句性と言ひ、川柳性と呼ばれるものは一応にはその発生的事情、条件および内容と形式または創作権によって決定されるのであるが、それは歴史的な発展に連れて内容的な変革を与へられると、その形式または創作方法を、新しい内容に密着させることによって、徐々に時には急速に新しいタイプをつくりあげてゆく」「俳句性、川柳性は、その内容的主題にかゝってゐるのではなく、その完成された形式または創作方法にはらまれてゐる」
つまり鶴彬にとって「たとへ俳句がどんな諷刺的な立題をとらえていやうと、またいかに川柳が叙情的な対象に立ち向かっていやうと」川柳は川柳であり確固とした文学なのです。