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 このシリーズの準備を始めた途端、6月5日に寺内町案内、14日に寺内町・石上露子のことを30分ほど話す機会が飛び込んできました。他日に備えてしっかり、のんびり書き継ごうと思っていましたがちょっと急いで仕上げなければいけないようです。かと言って、手を抜くわけにも行かないし、悩ましいところですが、ちょうどいい機会と心得て資料の整理にあたりたいと思います。
 今回の項をおこす前に、前回紹介していなかったNaoya Okutaniという方が(個人で?)開いておられるHPを紹介しておきます。私も、しばしばお邪魔してあちこち読み、眺め、聞き、愉しませていただいており、これ以上紹介のしようがないと思うほど完成度の高い、素晴らしい作品!です。ぜひ、お訪ねいただきたいHPです。筆者はこのHPの管理人さんに直接お会いしたことはありませんが、寺内町の旧家・奥谷家ゆかりの方に間違いないと思います。

 冨田林・寺内町の興りについて「戦国時代末期、永禄初年(1558〜1561年)西本願寺派京都興正寺第16世証秀上人が富田の荒れ地を銭百貫文で購入して拓いた」とするのが定説です。前回紹介したウィキペディァでは証秀を「14世上人」としていますが、正確には「16世」とするのが正しいようです。地元では冨田林の興正寺を単に「御坊」とか「御坊別院」と呼んでいます。
 巷間、この証秀上人を「蓮如の子」と説明する人がありますが、これは正しくないようです。蓮如は生涯に妻が5人おり、男女あわせて10数人の子どもがいたそうですが、その子どもたちの記録に「証秀」の名はありません。
 興正寺について寺伝によれば、開祖は親鸞ということです。親鸞は迫害を受け越後に配流されていましたが、1211年赦免され山城国山科に一宇を創建したのが興正寺の始まりです。が、これはまだ粗末な僧坊程度のことだったのでしょう。実際に興正寺を真宗念仏宣布の根本法城としたのは第7世了源で、1320年代に寺基を京都渋谷に移して確立した、とみるのが適切なようです。
 

☆ 追記
 ここまで書き進めてみて、証秀上人は何代目なのか、蓮如の何にあたるのか、など本来初歩的というべき事柄に疑問がおこり、再度調べています。
 どうやら、やはり証秀は14世上人とするのが正しいようで、蓮如の孫だろうという感触を得ました。ただ、もう少し本格的に、一向一揆のこと、寺内町のおこりのことなど確かめる必要を感じています。そこでこのページはこのままにして、少し時間を稼ぐことにします。
 5日と14日の案内・語りは従来準備していた資料でしのぎ、ここは当初の見込みどおり、しっかり、のんびり書き継ぐことに…。始めたばかりなのにごめんなさい m(_ _)m
'10.06.01
 
 
 
 
 ☆ 例によってクリックいただけば拡大できます。

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 冨田林の寺内町や石上露子のことなどが、かなり知れ渡るようになってきました。地元の努力もあいまって、近年は訪問くださる方も増えつつあり、嬉しいことです。
 富田林寺内町の概略はwikipediaでもひくことができます。
 富田林市のHPにも簡単な紹介があります。

 ところで、「寺内町」は何と読めばいいのでしょうか?
 「ウィキペディア」は「じないちょう」でも「じないまち」でも良いように書いていますが、地元の人間としては、富田林市のHPに書いてあるように「じないまち」と読んで欲しいものです。そもそもこれは「重箱読み」というもので、音読みと訓読みが入りまじった、少しタイプの変わった読み方なのだけれど…。
 ちなみに広辞苑で「城下町」をひくと当たり前のことですが「じょうかちょう」などという読みはなく、「じょうかまち」しかありません。「門前町」は「もんぜんちょう」でひくと「もんぜんまち」へひきなおさせるようになっています。「宿場町」も「しゅくばまち」しかありません。「町並み・街並み」の共通の特徴を踏まえ、「町(まち)」の様子を示す言葉ようですね。「ちょう」とは読まず「まち」と読ませるのは「○○町○○番地」のような固有名詞と区分するためなのでしょう。
 「寺内町(じないまち)」は、名刹の門前に展開する商業的な「門前町」ではなく、寺院の境内に展開する「境内町(けいだいまち)」であり、自治的な性格を持った「寺内町」です。
 冨田林の場合は京都興正寺の別院、俗称「御坊別院」の「境内」であるという体裁を整えた「寺内町」です。

 筆者はここ10年あまり、頼まれて毎年10件前後寺内町を案内してきました。その際に幾つかの資料を集めて私なりのレジメを作って活用してきました。
 その柱は①寺内町の街並みそのもののこと、②この町が生んだ歌人石上露子のことの二つです。この二つが相まって冨田林寺内町の風格ができあがっていると思うからです。
 しかし考えてみると、その内容をこのブログにアップしたことがありません。既成のレジメをここに再掲するだけでは面白くないので、今回、このレジメの大幅な改定を試みることにしました。
 考え考えしながら、その幾つかの事柄をここに連載しようと思います。例によって何回のシリーズになるのか見当はつきませんが、興味のある方はごゆるりとおつき合いください。

☆ 文中、赤い文字のところをクリックいただくと該当のページに跳ぶことができます。
こんなコメントをもらいました!
中原さんのコメント! 
そのやりとりを見ていただけますか?
こんな具合です!

忘れまい! 悲惨 過酷な「歴史」の一コマ! その数々…!
だから…! ボクたちは… 今… ここにいる!
 普天間基地の返還・撤去をめぐって迷走が続く…!
 小泉首相らは一貫して「日米同盟」と言ってきたが、鳩山氏は「抑止力」と言う。大した違いがあるようにも思えないが、使っている本人は「違う」と思っているのだろう。根源に「安保条約」があることは間違いない。
 当時は岸首相を始め政権当事者は「日米軍事同盟」だとの批判を絶対に認めようとしなかった。
だが、時が経ち自民党は「軍事同盟」という言葉こそ使わなかったが「日米同盟」だと平然と言うようになった。鳩山氏は「よく勉強してみると『抑止力』が大事とわかった」と言ったそうだ。小賢しい、ずるい言い方ではないか。米軍基地の存続が「抑止力」だというのだから、それは戦争にそなえた「軍事力」だと言っているのにほかならない。

 あれから、50年…。
 1960年の5月1日、メーデーの日は日曜だった。
 高校1年生だったボクは「せめてメーデーには参加を…!」と考え、会場に足を運んだ。遠巻きに集会を眺めてはいたが、どの集団にも加わることはできなかった。デモがはじまった。労働組合や民主団体の旗がひるがえり、活気あるデモだった。大学生の隊列の中程に、守られるように高校生の一団が歩いてくる。
 ボクはその中にも入れなかった。誘い合わせて来たのではなく、一人でのこのことやってきたのだから仕方がない。変な孤立感・孤独感を感じた。

 ボクが「せめてメーデーには…」と考えたのは「安保条約反対」の一念だった。親友であるIとMは同じ高校へ行ったが、ボクは好んで違う高校を選んだ。IやMのそれは都会風、ボクの選んだのは朴訥な田舎風と言えそうな雰囲気だった。

 今思えば高校に進学したばかりの頃によくあんな時間がとれたものだと思うが、IやMを誘って幾晩も議論した。
安保条約をどう考えるのか? 本文を探し回り、逐条的に読んでもみた。条約の真意を検討するのは難しかったはずだが、憲法9条があるにも関わらず、あれよあれよという間に警察予備隊がつくられ、保安隊に昇格し、自衛隊になってゆく過程は文字通り「再軍備」、戦争への道筋だと思えた。「朝鮮戦争」の影には微かな記憶がある。レッドパージという言葉にも…。その延長線上に「安保条約」があると思えた。「仮想敵国」の設定された条約ではないのか。

 Iは慎重だった。意見は合ったが、行動することは控えた。Mは急進的で、先輩の大学生らに誘われてフランスデモも経験していた。こう見ると、ボクの行動はその真ん中だったと言えるのかも知れない。安保反対の直接的なデモではない。メーデーである。しかし、その中心スローガンの一つにまごうことなく「安保反対」が掲げられている。
 デモ隊は車道を歩いたが、その流れに寄り添ってボクは歩道を歩き続けた。デモ行進初体験の日のことだ。

 50年…! 新安保の50年! 
 こと安保に関する限り、今もボクは青春のさなかにいるような気がしてくる…!
お遊びですが…!

1月以来、毎月義兄に献上した川柳を一挙にアップしてみました。
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