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しばらく前のことですが…!
春野さんが絵本「おとうと2」を出稿されました。

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できあがりが楽しみです。
そのブログは…
ここです

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⇦石川の河原で… 
 ヘラオオバコ

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⇦わが家の
ウキツリボク

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 なかなか生命力が強くて長い間咲いている

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 ⇧家の前の用水に毎朝やってくるアオサギ
  鯉がのぼってくる用水だから適当な餌もあるのだろう
  先日、町会で裏の溝さらえをすると、
  たくさんシジミがいたくらいだから…
 松本春野さんが目下ねじりはちまきで絵本作成中です。
 で、ちょっとブログのカキコに余裕がないと…!
 曰く
 「ブログの更新が滞っておりすみません。
 現在、絵本作成中にて心に余裕がなく、ただ画机に向かう日々なので日記に書くこともとくになく…といった毎日です」(June 2, 2010 2:54 PM)

 でも、この絵本!完成が楽しみなんですよね!
 曰く
 「私の『絵本おとうと』の第二作目の制作が今秋出版に向けて始動しました!前回と同じ出版社、編集者さん、デザイナーさん、印刷屋さん、監修では山田洋次監督。同じメンバーでまた絵本を制作できることを、心からうれしく思っています」(March 24, 2010 1:22 AM)

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 その間に映画「京都太秦物語」のポスターをものにされていました。ポスターと映画の概要はこちらへどうぞ!  
 ベルリン映画祭でも大人気!
 この映画のHPもごらんください!

 「京都太秦物語ノベライズ」が例の稲光宏子さんらの手で…! 
   新日本出版社1260円
 グッズも続々…! 
   クリアファイル200円 エコバッグ1000円 Tシャツ1600円

 「ノベライズ」は発売日に入手、その日の内に読破したよ!
 「貸して!」との呼び声高く、ただいま友人の間を巡回中!
 8世でも9世でもなかった? 了明尼公
 ところで、「興正寺史話」の36話にはこんなくだりもあります。

 「興正寺では歴代の第九世を了明尼公としています。了明尼公は了源上人の妻であり、興正寺の第八世とされる源鸞上人の母にあたる人物です。子息に遅れ、母親が次の代を継いでいることにはいささか奇異な感じを受けますが、これについては源鸞上人がわずかに二十九歳で没したことから、母である尼公が寺を継いだのだと説明されています。
 いまでこそ了明尼公は歴代の第九世に数えられていますが、これは明治時代になってから歴代に入れられたもので、江戸時代の興正寺では尼公を歴代には入れていませんでした。歴代というと、厳格に固定したものとの印象を受けますが、興正寺の歴代はのちの時代に時間をさかのぼって決められたもので、多分に便宜的に決められたとの面が含まれています。」
 つまり、「室了明尼公」は明治以前には9世上人に数えられていなかったというのです。

 結局、明治以前は光教(13世)と了明尼公(9世)が歴代上人に入っておらず、そうであれば証秀は14世だったということになります。とまれ、筆者は証秀上人が14世なのか、16世なのかを問う立場にありません。ただ、14世とするにも、16世とするにもそれなりの事情・根拠があるのだろうということ。16世と明記しているのは明治以降の「真宗法脈史」だったということです。

 大分うろうろしましたねぇ…!
 ことの起こりは第一回目に紹介したウィキペディァによる「富田林寺内町」と富田林市による「富田林寺内町」では証秀の代が違って書かれているということでした(前者では14世、後者では16世)。
 探索中、うろうろした足跡をそのままアップし、整理し直していませんので話のつじつまの合いにくいところはご愛敬としてお許しください。 m(_ _)m
 明治に入ってから加えられた十三世上人 
 発見というのは大げさかも知れませんが…!
 十三世上人にまつわるこんな文章を発見したのです。

 光教上人は、歴代としては興正寺の第十三世とされています。
 光教上人を歴代の十三世とするといっても、興正寺が光教上人を歴代に加えたのは明治時代になってからのことです。それまでの興正寺では光教上人を歴代には入れていませんでした。一方で、興正寺と同じ系統である佛光寺では、江戸時代を通じ、光教上人を歴代に数えていました。興正寺でもそれに倣い、明治時代となって上人を歴代に加えました。
 興正寺と佛光寺の所伝が違うというのも不思議な話ですが、興正寺が光教上人を歴代としていなかったのは理由があってのことです。興正寺と佛光寺は、蓮教上人が興正寺を再興することにより分かれますが、この時、蓮教上人が興正寺を興したのに対し、光教上人はそのまま佛光寺にとどまります。その際に佛光寺に生じた混乱を収めたのも光教上人で、当時から佛光寺では光教上人を「中興開山」と呼んでいました(長性院蔵「絵系図」)。このため興正寺では、上人を歴代に加えることはありませんでした。

 この文章もインターネットで閲覧できます。真宗興正派・本山興正寺のホームページです。ホームページに掲載されているのですからいわば「正史」とみなしてもよいでしょう。 ここです。 左側の下の方に「興正寺史話」が50回にわたって連載されています。その中の第44話のくだりの一文です。
 その中で「光教上人を歴代に加えたのは明治時代になってから」「それまでの興正寺では光教上人を歴代には入れていませんでした」というのですから、「証秀上人は16世ではなかった」ということになります。
 しかし、証秀を14世とするにはもう一人誰かが上人の座から降りなければなりません。注目されるのは8世、9世の関係です。興正寺、仏光寺関係の文献などをみると、親鸞、真仏、源海、了海、誓海、明光、了源までの7代は同一です。しかし、「真宗法脈史」で8世とされる源鸞(了源の子)については「早世」とし、9世とされる「室了明尼(了源の妻)」を「八祖」つまり「8世」としているものもあるようです。了明尼が事実上の上人として興正寺・仏光寺の采配を振るっていたことは事実のようですから、源鸞が8世と扱われていなかった時代があるのかも知れません。
 
 
 前回は証秀上人を14世とする根拠を検討してみました。しかし、世には16世とする文書もたくさんあります。その根拠はどこに有るのでしょうか。

  興正寺第十六世證秀上人
 探してみると、興正寺の歴史や歴代上人のエピソードなどが掲載されている書籍があり、公開されている(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)ことがわかりました。「真宗法脈史」という本です。早速訪ねてみます。
 これによると「この図書は著作権法第67条による文化庁長官裁定を受けて公開」されたものであり、明治44年(1911)6月、真宗興正派の僧中島慈応という人の手によって刊行されたものだということが解ります。目次に従って、証秀の項を探してみましょう。
 
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 上記のように第五編第三章(p99)に証秀上人の項があります。証秀の証は正しくは「證」です。
 書き出しのところに
 「蓮秀上人の入寂によりて、此の後を稟けて、本寺第十六世の法燈を継承せられしは、其の長子證秀上人なり」とはっきり「第十六世」と書いてあります。
 また、第二章の蓮秀の項に「諱は経照、母は本願寺巧如上人の玄孫蓮如上人の孫、常勝寺蓮覚師の女なり」とありますから、証秀は蓮如の曾孫ということになります。

 筆者は宗教家でも宗教史家でもないので、証秀上人が14世なのか、16世なのか、その真偽を追求するつもりはなく、「証秀上人は14世とも、16世とも言われます」と説明するに留めておこうと思っています。
 ただ、興正寺の歴史については親鸞を祖とし、第7世了源が開基。順徳天皇から「興隆正法」の勅願を受け「興正寺」と称したこと。その後、後醍醐天皇の時代に「阿弥陀仏光寺」の勅号を受け、仏光寺と称した時代があること。時には「仏光寺」「前興正寺」の呼称が併存していたらしい時代もあること。さらに、蓮如に帰依した蓮教(経豪)が再び「興正寺」を再興したこと。所在も京都山科、洛中東山、大坂天満、洛中七条堀川など転々としていること、など一言では語り尽くせない長い歴史があることは心得ておきたいものです(なお、ウィキペディァには興正寺史の概略と「真宗法脈史」による歴代上人一覧を掲載したページもあります)。
 ただし、ここにあげた「真宗法脈史」は西本願寺の脇門跡であった興正寺が明治9年(1876)真宗興正派として独立した後に書かれたものであることに注意が必要だろうと思っています。なぜなら、明治以降に歴代上人についての寺伝に何らかの作為が加えられた可能性を無しとしないと考えるからです。本山の住職は華園家であり、冨田林の別院の住職も華園さんですから、尋ねればその間の事情がわかるのかも知れません。
 さて、この筆者のヤマ感が当たっていたな!と思う資料を見つけました。ここでは長くなるので一旦おいて、次回にアップすることにします。
 前回、追記に記した証秀上人は果たして何世か? 蓮如との関係は?という疑問に正確に答えられる結論を得たわけではありませんが、一応記すことができそうな資料が調ったので続きを書きます。

 興正寺御門跡十四世証秀上人
 証秀上人を興正寺十四世とする根拠となる文献は「富田林市史」に3点あげられています。
 先ず「興正寺御門跡兼帯所由緒書抜」という文書です。
 曰く「河内国石川郡冨田林の儀は、往古荒芝地にて御座候処、三〇五ヶ年以前永禄三庚申年、三好山城守様(康長)五機内御支配の時、山城国西本願寺宗興正寺御門跡一四世証秀上人、右芝地百貫文礼銭に差し上げ、御坊境内に申し請く」(冨田林市史第2巻P316、杉山家文書。写真添付あり)。
 次に「古記輯録」という佐藤家の文書です。
 「そもそも冨田林御堂開山上人は、人王百七代正親院御宇、興正寺十四主御門跡証秀上人なり」。
 さらに「河州石川郡冨田林御坊 御禁制書其外諸証拠書写」という文書に
 「…往古同郡の内中野村・新堂村・毛人谷村・山中田村と申す脇ニ荒芝地御座候処、毛人谷ニ当山御坊これ有ニ付、当山十四世証秀上人の時代、足利将軍家えあい願われ、料足百貫文差し上げ、右荒芝地を申し請けられ…」とあるそうです(同P318・杉山家文書・写真あり)。
 この3点の文書の成立時期は、「由緒抜書」が慶応元年(1865)頃、「古記輯録」が天保14年(1840)頃、「証拠書写」は「文化五年(1808)浄谷寺(現富田林町)との古格論争にさいし作成したものと考証されているが、由緒書自体はいつ成立したのかきめ手はない」が「他の二種の由緒書より早く成立したことは明らか」ということです。
 これらの文書からわかることは、少なくとも江戸時代末期、19世紀初頭から中葉にかけては明らかに証秀上人は14世とされており、これが定着していたということです。