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フェイスブックにボクの知人、武田憲久氏のこんなカキコがアップされていました。
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「一ヶ月後の9月25日より初めての写真展 父の書庫より 武田 憲久 を開催することになりました
会場は大阪府内で唯一の重要伝統的建造物群保存地区 富田林寺内町にある寺内町センターにて(旧杉山邸前)です
ここ数年テーマにしていた 亡くなった父の書庫から出てきた 織田作之助の本や父の日記、原稿からはじまった
いたって個人的なものです。
7月末の入院以来準備らしい準備が出来ず未だ入院中という有様
まだどういう状態で展示できるのか、準備不足否めませんがなんとかたどり着きたいと思っています。
富田林という大阪市内からですと少し不便な場所での開催となりましたが
秋の行楽の一日で富田林寺内町とあわせて訪れていただければと思っています。ー 場所: 富田林寺内町センター」

見覚えのある写真です。
このモデルさんの写真を撮る、ということで、この日ボクが少しお供をしたのです。
なるほどなぁ…!というプロらしい撮り方でした。
知らぬ間にボクの写真も撮ってくれて、パネルを頂きました。大事にしています。
オダサクのお姉さんが富田林に居られて、そこにしばらく寄寓してかの「土曜夫人」を執筆したのです。
旧杉山家の住宅の蔵の一角には、僅かですが遺品少々も展示されています。
武田氏の初めての写真展がここで…、というのは嬉しい限りです。
取り結んでくれたのは、オダサク倶楽部主宰の井村さんでした。今年は生誕100年ということで、ことに忙しく活躍されています。
 昨日のブログアクセスを見ると、以前にアップした「竹ノ内街道 ー 日帰りドライブにいかが?」(クリック)に約3割のアクセスがあったことになっています。今頃、どうしたのかな?と考えて見ると思い当たることがあります。
 以下のような企画に興味を持たれた方がおられるのではないでしょうか。
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  *画像はクリックで拡大できます。適当なサイズになおしてごらんください*
 なかなか良い企画だと思いますが、どうでしょうか。
 大阪府や近隣自治体が府県境を越えて、1400年イベントに取り組んではいるものの、あまり成功しているような感じはしませんが…。
 大阪府のHPには、こんなコーナーもあります。ご紹介まで…。
 竹内街道・横大路(大道)1400年活性化プロジェクト(クリック)
 
 
 これは、倉本聡さんの言葉です。
 「僕は戦後、韓国、中国ヘ1度も行っていません。行けないんですよ。僕は当時子どもだったから戦争はしてませんけど、罪の意識があって、足を踏み入れられないんです」。

 この言葉に共感を覚えつつ2ヵ月半。単純な共感ではない、と苦悶の日々が続きました。
 ボクも身に覚えはないけれど、憶えはあるのです。
 ボクの戸籍謄本には「中華民国山西省愉次県愉次城内にて出生」とありました。終戦?敗戦?の直前まで、ほのぼのとした可愛い坊や!であったのです。
 父は当時、華北鉄道石家線の保守を担当する宣撫工作員だったようです。沿線の村人と親しくつき合う人であり、仕事でもあったのです。父母からは、沿線の人たちとの微笑ましい交遊の思い出を沢山聞かされました。
 相対的には「高級」の職種であり、世にきく「残虐な行為」には直接参画した気配はありません。
 しかし…、その全体は「侵略者」のお先棒を担ぐ「善意の人」だったのです。
 母は「昨日まで私らをチヤホヤしていた人たちが、掌を返したように冷淡になった」と中国の人たちを恨み続けています。侵略の事実を認識できない母の恨みです。
 父は、戦後、いささかその事実を確認したようでした。「反戦」の信念においては凄まじい迫力のある男になりました。

 さて、ボクです。
 ボクは、再三ならず、中国への「(観光)旅行」に誘われました。諸外国へも…。でも、ボクは行けません。どうしても行くなら、中国山西省愉次県が振りだしと心に決めていました。
 覚悟を決めて謝罪に行くのです。「日本鬼子」、「東洋鬼子」その償い無しには外国へ行くことはできません。敗戦までのほぼ一年、ぬくぬくと育っていたボクの写真がほんの数枚ですが、今も残っています。母が「命がけで」ポケットに忍ばせてきた写真です。
 ボクには、帰るべき故郷がありません。山西省という地、愉次という地を故郷とはとても言えません。無念の限りです。
 
 命からがら引揚げ、上陸したのは山口県の仙﨑港でした。幼い頃から、一度は行ってみたいと思いつつ、あえて行くことはありませんでした。
 でも、ふとしたことから心を寄せて熟読した詩人、金子みすずの故郷が仙﨑と知り、訪れる気持になりました。案に違わずいいところでした。「ここに引き揚げ船が着いた」という波止にも行きました。粗末で、貧相な波止です。
 「ようやくここまで来れた。これなら海を越えて(中国にも)行けるかも知れんなぁ」という感慨を持ったのは事実です。
 でも、やっぱり行けません。どう考えても、「観光」に通ずるしかない旅は苦痛です。
 
 ボクのこだわりです。笑う人がほとんどです。でも、中には共感してくれる人もいます。
 とうとう、69歳になりました。中国で生まれ、中国から引き揚げ、二度と海外に出なかった凡人、それでいいのではないか!と思います。
 倉本さんの決意、思いとは少し違うのかも知れませんが、ボクには忘れられない励ましの言葉となったのです。

 
 今日、何気なく見ていると昨日で延べ訪問者数が3万人をこえ、30,044人にのぼっていることが分かりました。
 この4月1日に25,000アクセス突破(クリック)と書きましたが、延べ訪問者数の間違いだったようです。
 4月から訪問してくださった方が5千人にのぼったということです。
 同一の方が一日に何ページ読まれても、訪問者数は一件となるということですから、この間の総アクセスは5千を遥かに上まわっていることになります。
 因みに、この間の一日あたりアクセス数の最高は、6月24日の842件でした。
 この日には平和のメッセージ 安里有生くんの詩(クリック)やちょうめいそうのこと(クリック)、よなぐにうまのこと(クリック)など3件を一挙にアップした日でした。
 それまでの最高はせいぜい150〜160件でしたから、ダントツのトップの日だったのです。その日は、ボクも大いに驚いたものでした。

 かねてこのブログを訪問くださっているみなさん、いつかお初の訪問をくださるみなさん、これからもヨロシクお願いします m(__)m
 格別の節目という年ではないけれど、今年の原爆被爆68周年は格別の意味を持ったように思う。
 そこで一通りの記録をアップしておきたい。
 先ず広島。子ども代表による「平和への誓い」(クリック)です。

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今でも、逃げていくときに見た光景をはっきり覚えている。
当時3歳だった祖母の言葉に驚き、怖くなりました。
「行ってきます」と出かけた家族、「ただいま」と当たり前に帰ってくることを信じていた。
でも帰ってこなかった。
それを聞いたとき、涙が出て、震えが止まりませんでした。

68年前の今日、わたしたちのまち広島は、原子爆弾によって破壊されました。
体に傷を負うだけでなく、心までも深く傷つけ、
消えることなく、多くの人々を苦しめています。

今、わたしたちはその広島に生きています。
原爆を生き抜き、命のバトンをつないで。
命とともに、つなぎたいものがあります。
だから、あの日から目をそむけません。
もっと、知りたいのです。
被爆の事実を、被爆者の思いを。
もっと、伝えたいのです。
世界の人々に、未来に。

平和とは、安心して生活できること。
平和とは、一人一人が輝いていること。
平和とは、みんなが幸せを感じること。

平和は、わたしたち自らがつくりだすものです。
そのために、
友達や家族など、身近にいる人に感謝の気持ちを伝えます。
多くの人と話し合う中で、いろいろな考えがあることを学びます。
スポーツや音楽など、自分の得意なことを通して世界の人々と交流します。

方法は違っていてもいいのです。
大切なのは、わたしたち一人一人の行動なのです。
さあ、一緒に平和をつくりましょう。
大切なバトンをつなぐために。

平成25年(2013年)8月6日
     こども代表 広島市立吉島東小学校 6年 竹内 駿治
           広島市立口田小学校  6年 中森 柚子

 *このシリーズは降順で読めるよう、アップの順序を調整しています。
 次は「平和宣言・広島」(クリック)です。
 少し抑制気味の感はありますが、「絶対悪」という言葉に迫力が込められていると思えました。

「あの日」から68年目の朝が巡ってきました。1945年8月6日午前8時15分、一発の原子爆弾によりその全てを消し去られた家族がいます。「無事、男の子を出産して、家族みんなで祝っているちょうどその時、原爆が炸裂(さくれつ)。無情にも喜びと希望が、新しい『生命(いのち)』とともに一瞬にして消え去ってしまいました。」

幼くして家族を奪われ、辛うじて生き延びた原爆孤児がいます。苦難と孤独、病に耐えながら生き、生涯を通じ家族を持てず、孤老となった被爆者。「生きていてよかったと思うことは一度もなかった。」と長年にわたる塗炭(とたん)の苦しみを振り返り、深い傷跡は今も消えることはありません。

生後8か月で被爆し、差別や偏見に苦しめられた女性もいます。その女性は結婚はしたものの1か月後、被爆者健康手帳を持っていることを知った途端、優しかった義母に「『あんたー、被爆しとるんねー、被爆した嫁はいらん、すぐ出て行けー。』と離婚させられました。」放射線の恐怖は、時に、人間の醜さや残忍さを引き出し、謂(いわ)れのない風評によって、結婚や就職、出産という人生の節目節目で、多くの被爆者を苦しめてきました。

無差別に罪もない多くの市民の命を奪い、人々の人生をも一変させ、また、終生にわたり心身を苛(さいな)み続ける原爆は、非人道兵器の極みであり「絶対悪」です。原爆の地獄を知る被爆者は、その「絶対悪」に挑んできています。

辛く厳しい境遇の中で、被爆者は、怒りや憎しみ、悲しみなど様々な感情と葛藤(かっとう)し続けてきました。後障害に苦しみ、「健康が欲しい。人並みの健康を下さい。」と何度も涙する中で、自らが悲惨な体験をしたからこそ、ほかの誰も「私のような残酷な目にあわせてはならない。」と考えるようになってきました。被爆当時14歳の男性は訴えます。「地球を愛し、人々を愛する気持ちを世界の人々が共有するならば戦争を避けることは決して夢ではない。」

被爆者は平均年齢が78歳を超えた今も、平和への思いを訴え続け、世界の人々が、その思いを共有し、進むべき道を正しく選択するよう願っています。私たちは苦しみや悲しみを乗り越えてきた多くの被爆者の願いに応え、核兵器廃絶に取り組むための原動力とならねばなりません。

そのために、広島市は、平和市長会議を構成する5,700を超える加盟都市とともに、国連や志を同じくするNGOなどと連携して、2020年までの核兵器廃絶をめざし、核兵器禁止条約の早期実現に全力を尽くします。

世界の為政者の皆さん、いつまで、疑心暗鬼に陥っているのですか。威嚇によって国の安全を守り続けることができると思っているのですか。広島を訪れ、被爆者の思いに接し、過去にとらわれず人類の未来を見据えて、信頼と対話に基づく安全保障体制への転換を決断すべきではないですか。ヒロシマは、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現する地であると同時に、人類の進むべき道を示す地でもあります。また、北東アジアの平和と安定を考えるとき、北朝鮮の非核化と北東アジアにおける非核兵器地帯の創設に向けた関係国の更なる努力が不可欠です。

今、核兵器の非人道性を踏まえ、その廃絶を訴える国が着実に増加してきています。また、米国のオバマ大統領は核兵器の追加削減交渉をロシアに呼び掛け、核軍縮の決意を表明しました。そうした中、日本政府が進めているインドとの原子力協定交渉は、良好な経済関係の構築に役立つとしても、核兵器を廃絶する上では障害となりかねません。ヒロシマは、日本政府が核兵器廃絶をめざす国々との連携を強化することを求めます。そして、来年春に広島で開催される「軍縮・不拡散イニシアティブ」外相会合においては、NPT体制の堅持・強化を先導する役割を果たしていただきたい。また、国内外の被爆者の高齢化は着実に進んでいます。被爆者や黒い雨体験者の実態に応じた支援策の充実や「黒い雨降雨地域」の拡大を引き続き要請します。

この夏も、東日本では大震災や原発事故の影響に苦しみながら故郷の再生に向けた懸命な努力が続いています。復興の困難を知る広島市民は被災者の皆さんの思いに寄り添い、応援し続けます。そして、日本政府が国民の暮らしと安全を最優先にした責任あるエネルギー政策を早期に構築し、実行することを強く求めます。

私たちは、改めてここに68年間の先人の努力に思いを致し、「絶対悪」である核兵器の廃絶と平和な世界の実現に向け力を尽くすことを誓い、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げます。

                  平成25年(2013年)8月6日
                     広島市長 松井 一實
 長崎では被爆者代表の築城昭平さんが「平和への誓い」を述べました。核廃絶に消極的な政府の態度や原発事故にもきちんと触れられているのが印象的です。

b0142158_23125357.jpg 今年もまた、暑い夏がやってきました。あの日のことは、私の脳裏から消えることはありません。
 当時、私は18歳、師範学校の2年生でした。毎日、動員学徒として三菱兵器住吉トンネル工場に通っていました。1945年8月9日、夜勤を終え、爆心地から北1・8キロのところにある寮に戻ったのが午前7時ごろでした。主食のカボチャを食べた後、すぐに寝ました。

 バリバリバリという音で目が覚め、その瞬間、爆風で吹き飛ばされ、気がついた時には部屋の壁に打ちつけられていました。隣に寝ていた友人は血だるまになっていました。私自身も左手首と左足が焼けただれ、飛び散ったガラスの破片で体中から血が流れ、赤鬼のような姿になっていましたが、はだしのまま20メートルほど先の防空壕(ごう)まで逃げました。

 防空壕の中はすでに人でいっぱいでした。その前には黒焦げになっている人、皮がペロリと垂れ下がっている人、鼻や耳がなくなっている人、息絶えたわが子を抱きしめ放心状態で座り込んでいる母親、全身焼けただれ茫然(ぼうぜん)と立っている人々の姿がありました。まさに地獄絵図でした。

 やがて起こった火事に追われ、長与の臨時治療所にたどり着きました。その翌日から疎開先の自宅で療養しましたが、2カ月もの間、高熱と血便が続き、立つこともできず、脱毛と傷の痛みに悩まされました。近くに避難をしている人が次々と亡くなっていく話を聞くと、次は私の番かと恐怖の中で死を覚悟したものでした。私はそのときまだ、放射能の怖さを知りませんでした。

 幸いにして、私はこうして生き延びることができました。今、強く願うことは、この大量破壊・大量殺人の核兵器を一日も早く、この地球上からなくすことです。しかし、いまだに核実験が行われ、核兵器の開発は進んでいます。もし核兵器が使用されたら、放射能から身を守る方法はありません。人類は滅亡するでしょう。

 わが国は世界で唯一の戦争被爆国として、核兵器廃絶の先頭に立つ義務があります。私たち被爆者も「長崎を最後の被爆地に」をスローガンに核兵器廃絶を訴え続けてきました。それなのに、先に開かれたNPT再検討会議準備委員会で「核兵器の人道的影響に関する共同声明」に賛同署名をしませんでした。私たち長崎の被爆者は驚くというより、憤りを禁ずることができません。

 その一方で、世界を震撼(しんかん)させた東京電力福島第一原子力発電所の事故で、新たに多くの放射線被曝(ひばく)者がつくりだされ、平和的に利用されてきた原発が決して安全ではないことが改めて示されました。それにもかかわらず、事故の収束もみえないのに原発再稼働の動きがあるとともに、原発を他国に輸出しようとしています。

 ヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマの教訓として「核と人類は共存できない」ことは明らかです。政府は誠実かつ積極的に、核兵器廃絶さらには原発廃止に向けて行動してください。
 そして今、平和憲法が変えられようとしています。わが国が再び戦争の時代へ逆戻りをしないように、二度とあのような悲惨な体験をすることがないように、被爆者のみなさん、戦争を体験した世代のみなさん、あなたの体験をまわりの人たちに伝えてください。長崎では核兵器の廃絶と平和な世界の実現を願って活動を続けている高校生、若者がいます。彼らが集めた署名は100万筆になろうとしています。

 この高校生たちに励まされながら、私はこれからも被爆の実相を次の世代に伝えていきます。核兵器も戦争もない、平和な世界をつくることは、私たちすべての大人の責任です。

 ここに、私の願いと決意を述べて、平和への誓いといたします。

                     平成25年8月9日
                     被爆者代表 築城昭平
 次は「長崎平和宣言」です。
 
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 この宣言は、時宜にかなった課題にも鋭く迫った迫力満点の感動的なものだと思います。
 長崎市のホームページで「いいね」をクリックすると、お礼の文章にこんな画像がついていました。


 68年前の今日、このまちの上空にアメリカの爆撃機が一発の原子爆弾を投下しました。熱線、爆風、放射線の威力は凄まじく、直後から起こった火災は一昼夜続きました。人々が暮らしていたまちは一瞬で廃墟となり、24万人の市民のうち15万人が傷つき、そのうち7万4千人の方々が命を奪われました。生き残った被爆者は、68年たった今もなお、放射線による白血病やがん発病への不安、そして深い心の傷を抱え続けています。
 このむごい兵器をつくったのは人間です。広島と長崎で、二度までも使ったのも人間です。核実験を繰り返し地球を汚染し続けているのも人間です。人間はこれまで数々の過ちを犯してきました。だからこそ忘れてはならない過去の誓いを、立ち返るべき原点を、折にふれ確かめなければなりません。

 日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。
 今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に、80か国が賛同しました。南アフリカなどの提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。
 しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。
 インドとの原子力協定交渉の再開についても同じです。
 NPTに加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化することになります。NPTを脱退して核保有をめざす北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、朝鮮半島の非核化の妨げにもなります。
 日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます。
  非核三原則の法制化への取り組み、北東アジア非核兵器地帯検討の呼びかけなど、被爆国としてのリーダーシップを具体的な行動に移すことを求めます。

 核兵器保有国には、NPTの中で核軍縮への誠実な努力義務が課されています。これは世界に対する約束です。
 2009年4月、アメリカのオバマ大統領はプラハで「核兵器のない世界」を目指す決意を示しました。今年6月にはベルリンで、「核兵器が存在する限り、私たちは真に安全ではない」と述べ、さらなる核軍縮に取り組むことを明らかにしました。被爆地はオバマ大統領の姿勢を支持します。
 しかし、世界には今も1万7千発以上の核弾頭が存在し、その90%以上がアメリカとロシアのものです。オバマ大統領、プーチン大統領、もっと早く、もっと大胆に核弾頭の削減に取り組んでください。「核兵器のない世界」を遠い夢とするのではなく、人間が早急に解決すべき課題として、核兵器の廃絶に取り組み、世界との約束を果たすべきです。

 核兵器のない世界の実現を、国のリーダーだけにまかせるのではなく、市民社会を構成する私たち一人ひとりにもできることがあります。
 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という日本国憲法前文には、平和を希求するという日本国民の固い決意がこめられています。かつて戦争が多くの人の命を奪い、心と体を深く傷つけた事実を、戦争がもたらした数々のむごい光景を、決して忘れない、決して繰り返さない、という平和希求の原点を忘れないためには、戦争体験、被爆体験を語り継ぐことが不可欠です。
 若い世代の皆さん、被爆者の声を聞いたことがありますか。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と叫ぶ声を。
 あなた方は被爆者の声を直接聞くことができる最後の世代です。68年前、原子雲の下で何があったのか。なぜ被爆者は未来のために身を削りながら核兵器廃絶を訴え続けるのか。被爆者の声に耳を傾けてみてください。そして、あなたが住む世界、あなたの子どもたちが生きる未来に核兵器が存在していいのか。考えてみてください。互いに話し合ってみてください。あなたたちこそが未来なのです。
 地域の市民としてできることもあります。わが国では自治体の90%近くが非核宣言をしています。非核宣言は、核兵器の犠牲者になることを拒み、平和を求める市民の決意を示すものです。宣言をした自治体でつくる日本非核宣言自治体協議会は今月、設立30周年を迎えました。皆さんが宣言を行動に移そうとするときは、協議会も、被爆地も、仲間として力をお貸しします。
 長崎では、今年11月、「第5回核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ」を開催します。市民の力で、核兵器廃絶を被爆地から世界へ発信します。

 東京電力福島第一原子力発電所の事故は、未だ収束せず、放射能の被害は拡大しています。多くの方々が平穏な日々を突然奪われたうえ、将来の見通しが立たない暮らしを強いられています。長崎は、福島の一日も早い復興を願い、応援していきます。
 先月、核兵器廃絶を訴え、被爆者援護の充実に力を尽くしてきた山口仙二さんが亡くなられました。被爆者はいよいよ少なくなり、平均年齢は78歳を超えました。高齢化する被爆者の援護の充実をあらためて求めます。
 原子爆弾により亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げ、広島市と協力して核兵器のない世界の実現に努力し続けることをここに宣言します。
                 2013年(平成25年)8月9日
                     長崎市長 田上 富久

b0142158_0124618.jpg さて、最後は両式典での安倍首相の挨拶です。読んでいてバカらしくなってしまいました。
 安倍氏は終始仏頂面をしていた(広島)、拍手一つしなかった(長崎)と伝えられています。
 挨拶の全文を読み比べると、子どもにも、被爆者にも、広島・長崎両市民、両市長にも、ひいては国民にも顔向けできない挨拶であることを自覚していたのではないかとさえ思えます。

 そこで、両会場での挨拶文を首相官邸のHPからひいてみました。
2013年8月6日、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式あいさつ
< >は8月9日、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典あいさつ
です。

広島市原爆死没者慰霊式、平和祈念式<本日、被爆68周年、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典>に臨み、原子爆弾の犠牲となった方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる皆様に、心から、お見舞いを申し上げます。

 68年前の朝<本日>、一発の爆弾が、十数万になんなんとする<7万を上回る>、貴い命を奪いました。7万戸の建物を壊し、一面を、業火と爆風に浚わせ、廃墟と化しました。<12万人が暮らしていた家屋を全焼、全壊し、>生き長らえた人々に、病と障害の、また生活上の、言い知れぬ苦難を強いました。

 犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました。しかし、戦後の日本を築いた先人たちは、広島に斃れた人々を忘れてはならじと、心に深く刻めばこそ、我々に、平和と、繁栄の、祖国を作り、与えてくれたのです。蝉しぐれが今もしじまを破る、緑豊かな広島の街路に、私たちは、その最も美しい達成を見出さずにはいられません。
<一度ならず、二度までも被爆の辛酸を嘗めた私たちは、にもかかわらず、苦しみ、悲しみに耐え立ち上がり、祖国を再建し、長崎を、美しい街として蘇らせました。今日は、犠牲になった方々の御霊を慰めるとともに、先人たちの奮闘と、達成に、感謝を捧げる日でもあります。>

 私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります。そのような者として、我々には、確実に、核兵器のない世界を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります。

 昨年、我が国が国連総会に提出した核軍縮決議は、米国並びに英国を含む、史上最多の99カ国を共同提案国として巻き込み、圧倒的な賛成多数で採択されました。

 本年、若い世代の方々を、核廃絶の特使とする制度を始めました。来年は、我が国が一貫して主導する非核兵器国の集まり、「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合を、ここ広島で開きます。

 今なお苦痛を忍びつつ、原爆症の認定を待つ方々に、一日でも早くその認定が下りるよう、最善を尽くします。被爆された方々の声に耳を傾け、より良い援護策を進めていくため、有識者や被爆された方々の代表を含む関係者の方々に議論を急いで頂いています。

 広島<長崎>の御霊を悼む朝、私は、これら責務に、旧倍の努力を傾けていくことをお誓いします。

 結びに、いま一度、犠牲になった方々の御冥福を、心よりお祈りします。ご遺族と、ご存命の被爆者の皆様には、幸多からんことを祈念します。核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶といたします。

       平成二十五年八月六<九>日 内閣総理大臣・安倍晋三

☆ ご覧のように僅か9つのパラグラフのうち、違うのは1つだけ、全く同じパラグラフが5つ、その他は少しだけ手を入れてあるという代物です。
 子どもや、被爆者代表、両市長の切実な問いかけに何一つまともに答えていません。
 全く芸のない話です。こういうのを同工異曲、あるいは異曲同工というのではないでしょうか。わざわざ現地まで出かけてするような挨拶ではないではありませんか。歯の浮くような際物だと断じざるを得ません。
☆ このシリーズの終わりに、こんなブログがあったことを紹介しておきます。
【安倍首相のヒロシマ】式典の途中で、『拉致問題』のバッジをはずしていた(クリック)
 「拉致問題」のバッジをつけて式典に参列するのは具合が悪いと気づいたのでしょうか。それにしてもよく観察しておられます。敬服しました。傑作ではないでしょうか。
 安倍くん、国民の目は節穴では無いのだぞ!      (完)
 今朝の朝日新聞で作家の赤坂真理さんが寄せられた記事を読んだ。共感するところ多々あり、興味深かった。
 漢字を英語でチャイニーズ・キャラクター(Chinese character)というと知って「死ぬほどびっくりした」というくだりには笑ってしまったが、「せめて自国の歴史や言語の来歴は教えてほしい」との意見には全く同感する。
 「日本国憲法を読むなら大日本国憲法も読むのがいい。自民党の改正案も。また外国の憲法にも目を通さなければ『憲法』の概念自体わからない」「日本と同じ敗戦国で、対照的な戦後を歩んだドイツの憲法も興味深い」。「『日本を、取り戻す』という自民党のコピー」が取り戻すのは「明治」だと「気づいた」という言葉は卓見だと思う。
 よく味わうべき文章だと思えるので、ここに記録しておこう。
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  *画像はクリックで拡大できます。適当なサイズになおしてお読みください*