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 この25、26日、広島県のホロコースト記念館や大久野島、毒ガス資料館を訪問した。
 紀行文ではないので、毒ガス資料館で見つけた一つの資料のことだけを記しておきたい。
 一言触れておけば、大久野島は毒ガス島とも呼ばれる。それはアジア太平洋戦争時に国際法違反を承知の上で大量の毒ガスを製造していたからだ。 
 製造に従事した人の多くが死亡、あるいは後遺症に悩まされ、中国大陸ではその効能を試すために人体実験を行い、かつ、毒ガス使用によって多数の中国人を死に至らしめた。戦後、放置された毒ガス弾の被害は今も続く。
 国際法違反の毒ガス製造の事実を隠蔽するため、大久野島は地図からも抹消されていた。
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 興味深い展示はいくつもあったが、中でも目を引いたのは毒ガス使用命令書だ。見学者の多くはさらりと目を通して流れてゆくので惜しいと思い、音読すると耳を傾けてくれる人が多数おられた。
 ここでは、この一文を書き出しておきたい。

極秘
大陸指第110号
    指  示
大陸命第39号及び第75号に基づき更に左の如く指示す
1、左記範囲に於いてあか筒軽迫撃砲用あか弾を使用することを得
 ⑴使用目的 山地帯に蟠踞する敵匪の掃討戦に使用す
 ⑵使用地域 山西省及び之に隣接する山地地方
 ⑶使用法  勉めて煙に混用し厳にガス使用の事実を秘匿し其の痕
       跡を残さざる如く注意するを要す
2、別紙の如くあか弾及びあか筒を交付す
    昭和13年4月11日 
               参謀総長戴仁親王


 僕の興味を引いた幾つかの点を列挙しておく。
 あか筒あか弾とは、上段の写真にある毒ガス弾を発射する砲筒(軽迫撃砲)と弾頭のことだ。使用することを得とあるので、一見「使っても良い」とも読めるが、実は「使え」という命令にほかならない。
 蟠踞(ばんきょ)する敵匪とは時代がかった言葉だが、広大な土地に根を張っている敵ということだ。敵匪(てきひ)という言葉はもう死語と言ってもいいのだろう。手元の2、3の辞書にはない。が、およその意味はわかる。である匪賊(ひぞく)のことだ。匪賊は辞書にある。徒党を組んで略奪・殺人などを行う盗賊のことだ。日本の侵略に抵抗する正規・非正規の中国人部隊をことごとく敵匪、盗賊とみなし、蔑み、毒ガスを用いて殲滅しようと企んだのだ。
 その使用地域を見て驚いた。山西省及び之に隣接する山地地方とあるではないか。山西省(さんせいしょう)は華北鉄道の沿線にある、どちらかといえば辺境と言っても過言ではない地域だ。解放軍の根拠地の一つであり、ボクの生まれたのは山西省楡次県(ゆじけん)楡次城内なのだ。
 最後のくだりには極めて重要な内容が含まれている。
 勉めて煙に混用し厳にガス使用の事実を秘匿し其の痕跡を残さざる如く注意するを要す
 極力、煙に混ぜて使い、厳に毒ガスを使用したという事実がバレないように注意せよ!というのである。
 なぜこのような仰々しい注意書きが必要だったのか。
 1899年のハーグ陸戦条約は最初の明文規定として化学兵器の国際規制が決められていた。1925年には第一次世界大戦での化学戦での悲惨な結果を踏まえ、ジュネーブ議定書が締結されていた。ジュネーブ議定書の正式名称は「窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」というもので、1928年に発効している。
 大久野島を地図から抹消してまで毒ガスの製造を秘匿し、戦地においてはその使用を厳に秘匿と命じたのも、国際法違反を承知の上の暴挙であり、愚行であることを百も承知していたからだった。
 さて、最後に参謀総長戴仁親王のことだ。現場ではこの親王の名を何と読むのかわかる人がいなかった。で、手持ちのタブレットで確認してみると閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)ということがわかった。皇室の一員たる参謀総長による命令だったのだ!
  母子猿 栗を抱えて 差し向かふ
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 お隣から栗をいただいた。
 もちろん剥いてあるのだが、一つだけ毬栗を入れてくれてあった。
 季節感、風情たっぷりではないか。
 もちろん食すのだが、少しもったいない。で、玄関に飾ることにした。真っ赤なテーブルクロスがある。槍を抱えたアイヌの置物がある。母子猿が差し向かいに二つの栗を抱えている様も面白いのではないか。並べてみるとこんな感じになった。

 アイヌのオジさんに毬栗を剝いてもらった母子猿が「さぁ、いただきましょう!」と嬉々としている姿に見立てたのだが…!

 よく考えると辻褄が合わない構図でもある。
 北海道にもともと栗の木はなく、和人が持ち込んだものだという説があるという。
 野生の猿は北海道にはいない。下北半島が北限だともいう。
 古今著聞集には 『母子猿』 という儚い説話もあるらしい。
 あれやこれや考えると、どう見ても素人の手遊び(てすさび)にしか過ぎない飾り物だ。

 だが、なんとなく時間を過ごすには面白い飾り物になったような気がするので、しばらくこのままにしておこうと思っている。

 栗を剥く 穂先を待つか 母子猿
 
   暁を抱いて闇にいる蕾
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 今日は「あかつき川柳会」の主催する鶴彬の碑前祭の日でした。
 ボクにも挨拶の機会をいただいたので、大要、以下のようなことを話させてもらいました。
       *       *       *
 今日は9回目の碑前祭であり、取り仕切ってこられた「あかつき川柳会」創立15周年の年だと聞いております。まず、この間の労をねぎらい、お祝いの言葉を贈りたいと思います。
 鶴彬の作品を全集として最初に刊行されたのは一叩人(いっこうじん)さんでした。ここへ寄せていただくにあたり、もう一度目を通してきました。
 この碑にある句は昭和11年(1936年)3月15日の「蒼空」第4号、火箭集(かせんしゅう)に収録されている5つの句の一つです。順に読んでみます。
 村々の月は夜刈りの味方なり
 暁を抱いて闇にいる蕾
 枯芝よ!団結して春を待つ
 吸ひに行く 姉を殺した綿くずを
 貞操を為替に組んでふるさとへ

 綿くずって、今日のアスベストを思い出させますねぇ。
 これらの句を詠んだ時、鶴彬は27歳。ハンセン作家として有名な北条民雄が「いのちの初夜」を書いた年、堀辰雄が「風立ちぬ」を書いた年でした。
 政治的には、2・26事件により軍部ファシズム確立の端緒が開かれた年。人民戦線運動に大弾圧が加えられ、1千人余が検挙され、235人もの人が起訴された年です。この年メーデーが禁止され、スペインではあの内乱が起こった年でもあります。
 この碑の句について井上麟二氏(鶴彬が世話になった剣花坊氏の長男)が親しみを込めて、次のような評をしています。
 「これは鶴君の稀らしい感傷だ、闘志の先端に咲いた感傷の花だ、何か深刻な内容があるかに見える激しい語は使ってあるが、そんなことは作者の任意で、不思議と私はそんなものを感じない。そしてこれはいい句だとただ柔順に受け入れた。上手な君の句だから、と言ふ買かぶりがあるのではあるまいかと二度三度熟考したが、どんな未知の人の作であってもやっぱり秀句として抜く句である。この見解は鶴君には不満なのに違いないがそれは評者の罪ではない。こんな句を作った鶴君の罪である」
 鶴彬は一般に反戦川柳作家と言われていますが、本人は到達点として「プロレタリア川柳」と自称しています。この句にはリアリズムとリリシズムの見事な融合があるように思います。
 ひるがえって、安倍内閣は今、極端なだまし討ち、暴走を続けています。この時に、私たちはいかにあるべきか。鶴彬の決意を学ぶこと、引き継ぐことの大事さは言うまでもありません。しかし、私たちはそこからもう一歩前へ行かねばなりません。私たちはいつまでも「春を待つ枯芝」、「闇にいる蕾」であり続けるわけには行きません。先人たちが切り開いてくれた道をさらに大きく進まなければならないのだ、という気概をこめて碑の前での言葉としたいと思います。ご清聴ありがとうございました。
   流れゆくがっかり感や鰯雲

 長い間、このブログにアップすることができなかった。あまり意識はしていなかったが、どこか気落ちしていたのだろう。

 一つには、6月末に母が亡くなったことがあるような気がする。 96歳だったから「天寿を全うした」とは言えるに違いない。だが、末期は哀れだった。かなり重症の認知症に見舞われていた。脚が壊死していて、初めは足の小指、次には膝下から切断した。ボクガ決断した。でも、さらなる切断にはストップをかけた。これ以上の手術は苦労以外の何物でもないと思ったからだ。
 母の葬儀は、ほんの身内だけの家族葬とした。14〜15人のささやかなものになった。大きな葬儀の世話をしたことはあるが、こんなにささやかな葬儀を取り仕切ることは初めてだった。でも、それなりの運営はできたのではないかと思う。最後に、みんなで「千の風になって」を歌って送った。
 ボクに信心心はないが、毎朝小机に置いた母の遺影に飲み水を取り替え、駄菓子を供え、線香を一本立てている。信心ではなくとも、追憶はあると思うからだ。
 そこには、往年の写真と
 梅雨晴れ間一言ずつの家族葬
という我流の川柳が飾られている。

 二つには、参議院大阪選挙区の結果があるのではないかと思う。
 折角定数が増えて、今度こそ大阪選挙区で議席を確保できるのではないかと期待した。ところが、自民党の策略とそれに呼応した「おおさか維新」の計略の結果、期待する候補者の議席獲得はならなかった。
 ある人が「もっと伸びると思っていた」「改憲勢力の3分の2を許してしまった」「渡部結さんを通せなかった」というがっかり感に答えることが重要と指摘しているらしいことを知って、妙な共感を覚えた。「がっかり感」とは言い得て妙の表現ではないか。

 三つには、東京都知事選挙の経過と結果があるようだ。
 各政党の努力、鳥越氏の奮闘、それを支えた人々の奮闘に異論はない。その経過に宇都宮氏の動向があったことも承知している。しかし、その経過や結果についての鳥越氏の応答、宇都宮氏の応答には歯切れの悪いところが多々あるような気がしてならない。各政党のコメントも少し歯切れが悪いのではないか。「なるほど良く分かった」といえる解明にはたどり着けていない気がする。と言って、どこかに、誰かにわざわざ注文をつけるつもりでもない。

 で、こんな気持ちになってしまったのがこの夏であった。

 もうえぇよ背ぇ伸びせんとき年金者

 とは言え、イロイロやるべきことの多い秋を迎えたのです。
 なんとか、やっていけまっしゃろ!