西行絵巻 ー 物好きの深読み Ⅱ

第二首 こぞのしをり 

吉野山こぞの枝折りの道かへて
    まだ見ぬかたの花をたづねむ


 もともと、この歌の意はわかりやすい。こんな紹介があった。
 「吉野山の去年の花見のとき、目印のため枝を折っておいた道をかえて、今年はまだ見たことのない方面の桜を尋ねよう。(旺文社 古語辞典より)」
 「こぞ」とは去年・昨年。「枝折り(しをり)」とは文字通り木の枝を折って目印とする、栞の語源だともいう。「かた」は方、方角・方面である。「たづねむ」とは訪ぬ・尋ぬに「む」という意志が示された言葉だ。
 紹介どおりに読んでも素晴らしさはわかる。しかし、何だかもの足りない。筆者はこの歌を初めて読んだとき、なんとも言えない感慨にとらわれ、感傷的と言えるかも知れない共感に誘われた。恥ずかしながら深夜に独り、涙したのである。それは何だったのだろう。

 吉野山こぞのしをりのみちかへてまだ見ぬかたの花をたづねむ

 探してみると「西行が求める花は、去年の花にも無かった、追いかけても、追いかけても尽きない、憧れの花であったのだろうか。庭園の桜の花は、白、ピンク、牡丹色など、色とりどりで演出され、池に覆いかぶさるように天人の桜が佇んでいた。池の水面は花筏が漂っている」と名文をものする人がいた。「追いかけても、追いかけても尽きない、憧れの花」というくだりがとても納得できる。
 物好きは考える。所以はともかく法師となった西行はまだ若かった。物見遊山のごとく、年々歳々桜狩り、花見に出かけて興趣を愉しんでいたとばかり、読んでいていいのだろうか。
 「吉野山」はそもそも深山幽谷の地であり、比類のない険しい道のりを覚悟しなければ至ることのできない難関であった。「こぞ」には「一説に昨夜」との解もある。「かた」には「ころ(頃)、時分」との解もあり「世」とも読める。「たづぬ」には「所在のはっきりしないものを探し求める」という意もある。「花」はもちろん桜だろうが、名誉、誇りとも読める。
 筆者には「将来を嘱望されていた青年武士が世を捨て、法師の身となり、日夜山野を彷徨う。道しるべの通りには歩まず、進路をかえてまでまだ見ぬ時代、世、道筋、理想の道を尋ねていこうとしている」と読める。そこには心許ないはかなさ、なお行かんとする孤高の決意、青年らしい美学が漂っているではないか。老境に立つ、文人の「花」の歌では決してあるまい。
by itya-tyan | 2009-04-11 17:03 | 西行絵巻ー物好きの深読み | Trackback | Comments(0)
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