西行絵巻 ー 物好きの深読み ⅩⅢ

第十三首 秋の夕暮れ

心なき身にもあはれは知られけり
       鴫立つ沢の秋の夕暮れ


 この歌には話題が多く「深読み」している暇がないほどだ。が、とりあえず解釈から始めよう。
 まず「心なき身」だが謙辞、つまり自分を卑下した言い方と見る説がある。
 「心なし」は辞書的には「道理を解さない、思慮分別がない。人情を解さない、思いやりがない、つれない。情趣を解さない、風流心がない」などとなる。そのまま訳すと、「風流の分からぬ身だが、この情景のあはれ、趣はわかる」ということになるが、もの足りない。
 もう一つの見方は「煩悩を去った無心の身」、「感情を超越した僧である自分」という読み込みだ。訳してみると「俗世間を捨て、情趣にとらわれぬよう出家した身ではあるけれど、鴫の飛び立つ秋の夕暮れの沢にいるとしみじみとした趣を感じるなぁ」ということになろう。この方がすっきり理解できる。
 筆者の備忘のために以下の文章をここに留めておきたい。よく読めば味わい深いのだが…。
【鑑賞】「心無き身とは世を遁れて六賊(注:色・声・香・味・触・法の六境)を捨てて、無住無心になりぬれば、悲しきとも、面白しとも、嬉しきとも思はず、されども秋の夕を過ぎ行くに、道の辺の沢田に鴫の鳴きたちたる夕暮の哀れさは、心なき身にも骨髄に透りて耐へ難く悲しき事、詞には言はれずと云ふ事を、言ひさして、鴫立つ沢の秋の夕暮は、遣る方無きものかなと終りたる歌也。猶深き心言ひ果てぬ歌なり。是は、境に至るほど吟味深かるべし。位ほど(注:読者の品位・力量に従って)面白くも哀れにもなる歌なり」(東常縁『新古今和歌集聞書』)。

 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ

 西行の歌は、あちこちで編集されているため、いつ、どこで、どのような背景のもとに作歌されているのか、特定することがなかなか難しい。この歌も然りである。にもかかわらず、西行が源平合戦の一部始終を見た上で、陸奥への旅の途上、相模大磯で詠んだとする伝承が根強い。大磯には鴫立沢との地名も、鴫立庵という俳諧道場も現存するという。この伝をとると、西行が二度目に陸奥へ旅する途上の歌ということになる。西行は高僧重源に頼まれて東大寺再興の資金作り(勧進)に東北・藤原氏を訪れようとしていたのである。単なる「漂泊・修行」の旅ではなかったのだ。

 この歌には、俊成をめぐる二つのエピソードがある。
 一つ。西行が「御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)」に、左「大かたの露にはなにのなるならん袂に置くはなみだなりけり」、
右に「鴫立つ沢の歌」を出したとき、判定者・藤原俊成は、左の勝ちとした。その理由を
左は「露にはなにのといへる、言葉浅きにして、心ことに深し」として、平易な言葉の中にも深みがあると評価し、右は「心幽玄に、すがた及びがたし」と述べ、歌詠みの心は幽玄だが、歌の形が整っていないと評したという。
俊成と「鴫立つ沢」の歌の感性は相容れなかったのである。
 二つ。西行が陸奥への旅の途次、「千載集」の撰進を聞きつけこの歌の入集を期し、都に上るつもりで結果を聞いたところ「さもなし」との返答を受け、「さては上りて何にかはせん」とそのまま陸奥へ旅立ってしまったというのである。真偽はともかく、俊成がこの歌を採らなかったことに「いたく失望した」とも「憤った」とも伝えられる。ある人はこの説話を「西行の誇り高さ、気むずかしさ、臆することのない自意識」と評している。
 このエピソードを見るに、先に挙げた東常縁の「位ほど面白くも哀れにもなる歌なり」との評釈が皮肉っぽく聞こえる。俊成には「位、品位・力量」が不足していたたように読めるではないか。

 最後に、「三夕(さんせき)」について触れておこう。
 いつ、誰が言い出したのか、諸説があって判然としないが、下の句が「秋の夕暮れ」で終わる三首の有名な歌を「三夕」という。その三首は次のとおりである。
☆心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
                        (西行法師)
☆寂しさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ 
                        (寂蓮法師)
☆見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
                        (藤原定家)
 

 「秋の夕暮れ」を決定づけたのは清少納言の「枕草子」だろう。「春は、あけぼの」、「夏は、夜」、「秋は、夕暮」、「冬は、つとめて」という書き出しが思い出される。