補遺 第二回 鶴彬碑前祭の日に 09.09.14 ①

大勢の見るところ鶴彬は日本共産党の「党員ではなかった」ようです
一叩人氏は「金沢第七連隊赤化事件判決文」引用にあたって「党員であったと考えるのが自然」と述べ、角田通信(相被告人)の「入党推薦者であったと思われる」と書いています。
しかし、この判決文を良く読めば、鶴彬は当初「日本共産党のスローガンは大体に於いて全部之に共鳴すれども其中君主制度の撤廃なる一項目は我国の国情に照らして直に之に共鳴し難しとの旨を述べ」ていました。しかし判決は「弁疏すれども…私有財産の否認に賛成し居ると共に君主制度の撤廃をも希望し居るものなりと認定せられても亦已むことを得ざる旨の自供及予審官尋問調査中(の)供述記載あるに徴し之を認む」とあり、官憲が鶴彬を陥れていった経過が窺えます。
また、相被告人である角田通信について「浅学にして年少気鋭現社会制度の欠陥を痛切に感じたることなきは勿論共産主義の全貌に付深く研究検討するところなく僅に同僚より刺激を受け漫然同主義に感染共鳴し入党するに至りけるもの」と驚くほど軽くあしらい「懲役一年、執行猶予二年」と判決しているのです。鶴彬がこんなに軽率に軍隊内で「入党工作」をし、「推薦者」となるとは考えにくい話です。
さらに、元柳樽寺川柳会同人、勝目テル氏(柳名市来テル子)は「鶴さんは共産党員ではなかったが、石川県下ではナップで活躍していたようだ」と一叩人氏自身の取材に対して語っています。要するに「鶴彬党員説」は官憲側からの情報はあっても、党そのものや活動家周辺からの情報にはそれがないのです。
不審な病死(三八年・二九歳)に至る
昭和一三年九月一四日午後三時四〇分、東京市淀橋区柏木町(現在・新宿区北新宿四丁目六番一号)の東京市立豊多摩病院(伝染病院)にて没。
「鶴君が殺されたのは赤痢菌注射説もあるようですが、当時の官憲のしたことだから何を信用していいのか分かりません」(井上麟二氏・井上剣花坊氏長男)
「今日はおもひがけなく胸を刺されたやうな傷ましいことを聞いた。それは喜多氏の精神的な異状と言ふ最大不幸の報であった。自分は聞いた瞬間にアヽシマッタと心の中で叫んだ」(九月六日・井上信子氏日記)