西行絵巻 ー 物好きの深読み ⅩⅦ

第十六首 富士のけぶり

風になびく富士のけぶりの空に消えて
     行方も知らぬわが思ひかな


 富士とは、もちろん富士山のことだ。古来、不二とも不尽とも書く。不死という例もある。日本のふる里ともいうべき霊峰である。その富士に「けぶり」が立っている。筆者が子どもの頃は「活火山、休火山、死火山」という分類があって、富士は「休火山」だと教えられてきた。しかし、最近では学術的になのか、行政的になのか、このような分類はしていないという。
 ともあれ、西行が富士を眺めていたときには「けぶり」が立っていた。調べてみると、富士の火山活動は781年から1707年まで十数回の記録があるらしい。そのうち、ひときわ有名なのが800年の大噴火(延暦19年・平安時代)、864年の大噴火(貞観6年・平安時代)、1707年の大噴火(宝永四年・江戸時代)ということだ。なかでも1707年の大噴火は噴火史上最大といわれ、江戸に住んでいた新井白石の日記に「昼でも行灯をつけなければならないほど空が暗くなった」とあるという。その後302年、富士は眠っているのか、休んでいるのか。
 西行は813年前、1186年の夏「けぶり立つ富士」を眺めていた。その心境やいかに。
 「富士山の噴煙が風にたなびき空に消えてゆく。つけても決して消えない、時には火のように熱くなる私の思いはどこへ行くのだろう。行方も知れぬわが思いであることよ」と鑑賞できる。
 「火のように熱くなる」としたのは「思ひ」の「ひ」には火山である富士の「火」と「自身の思いの熱さ」を「かけたもの」という説があるからだ。実際、西行はこの歌を「第一の自嘆歌(慈円の拾玉集)」と言っている。また、この歌の初出である「西行上人集」では「恋の部」に入っている、しかし「新古今集」では「雑歌の部」入っているという。どうやらこの歌も少しく難解、奥深い解釈の余地ある歌といえるようだ。
 もっとも、筆者も「明澄でなだらかな調べ… 自然と人生の完全な調和」(白州正子氏)、「澄明で平安な世界」(安田章生氏)「万感に満ちた西行の胸郭を解放」(宮柊二氏)、「広大無辺な宇宙のひろがり… ようやく悟った」(瀬戸内寂聴氏)などの考察を否定するつもりはさらさらない。が、西行自身が「自嘆歌」と言い、撰では「恋の部」や「雑歌の部」に入る歌とは何なのか。深読みの興趣がそそられるのだ。

 風になびく富士のけぶりの空に消えて行方も知らぬわが思ひかな

 「けぶり」とはもちろん「煙・烟」のことであるが、「全訳古語辞典」(旺文社)で真っ先に出てくるのは竹取物語「ふじの山」の引用で「(不死の薬を焼く)煙」とある。次が「火葬の煙、火葬、死ぬことのたとえ」である。さらに「飯をたくかまどの煙、転じてくらし」、その後に「(霞・水蒸気・新芽などが)煙のようにたなびいたり、立ち上ったり、かすんで見えたりするもの」が出てくる。最後は「地獄の業火の煙」である。この辞典にには「発展」という項があって「『煙』が人の死を象徴するものとされるようになったのは、仏教とともに火葬の風潮が一般化してからのことである」とか「文芸作品においてはしばしば、人の死をはっきりとは言わないで『煙』によって暗示することがある」などと説明されている。「例解古語辞典」(三省堂)の記述はごく一般的な「けむり」の説明から入っているが、後は同じようなものである。
 とすれば「富士のけぶり」を単に「富士山から噴煙が立ち上り風になびき空に消えていく」という自然の情景に感嘆し、その情景に西行が「同化」している、とだけ読むのは浅いのではないか。
 「富士のけぶり」と照応しているのは、不死、生と死、地獄の業火、それらにまつわる諸々の想念が込められた「わが思ひ」なのである。西行は生涯にわたって「わが心」、「わが身」、「わが思ひ」にこだわり続けてきた。ある人は「数奇心も道心も恋心も旅心も諸々含まれた名状し難い複雑な想念」と言っている。その「思ひ・想念」が「富士のけぶり」とともに昇華され、淡々たる悟り、澄明な境地に立ったと言えるのだろうか。物好きは怪しむのである。
 第十七首のところで見る事になるが、西行は未練も、悔いも、羞じらい・照れも抱えたまま七十歳という歳を迎えようとしている。が、老いたりといえどもまだ奥州平泉へ足を運ぶ情熱もある。邂逅した源頼朝に抵抗してみせる気骨も残っている。息苦しいほど生々しい情感、俗世への未練、鋭い世相観察のその総体を抱えている西行。「富士のけぶり」に見入る西行の姿は(石川河川公園の絵巻・陶板画にはないが)雄大な富士とは対照的に余りにもちっぽけに描かれている。その姿には隠遁、高踏、漂泊とはいささか異なる趣きがある。筆者はそこに西行のいい知れない哀感を読む。まさに自ら「自嘆歌」と称する嘆きの声が聞こえるようではないか。