西行絵巻 ー 物好きの深読み ⅩⅩⅢ

西行絵巻 異譚 ③

謡曲・松山天狗 雨月物語・白峯            西行、崇徳の怨霊を鎮める

 謡曲「松山天狗」も「雨月物語 白峯」も西行が讃岐・白峯の崇徳の陵を参ったときに詠んだとされる歌によせて脚色している。
 それは
 松山の浪の景色は変わらじをかたなく君はなりましにけり
 よしや君むかしの玉の床とてもかからん後はいかにかはせむ

 などの歌である。

 謡曲「松山天狗」によれば、西行が案内を乞うた「新院(崇徳)」の御廟はとてつもなく荒れ果てていた。西行が案内の老翁に問う。「ご存命中に誰かお慰めに来てくれたか」。老翁答えて「院はお恨みのことが多く、白峯の相模坊に従う天狗どもがお仕えするほかは、伺候するものもいない」。
 西行は詠む。
 よしや君むかしの玉の床とてもかからん後はいかにかはせむ
 「たとえ君が昔は玉座にお座りになっていたにせよ、こうなってしまったらどうして差し上げれば良いのだろう。いや、どのようにもして差し上げられない。(本当に無念でたまらない)」ということだろう。この歌は西行、畢生(ひっせい)の鎮魂歌だといわれる。
 と、「いかに西行、ここまではるばる来てくれたか。返す返すも嬉しいぞ」と声がする。御廟が鳴動して崇徳が姿を現す。二人は再会を歓び、楽しい一時を過ごすが、院の顔は次第に逆鱗の様相に変わってゆく。山風が吹き、雷鳴が轟く。そこへ、あちこちの雲間、峰間から天狗が羽をならべて翔け降りてくる。「相模坊とは我がことなり。小天狗を引き連れ、仇敵を討ち平らげ、天子のお気持ちを慰めたてまつらん」と天狗の棟梁が額ずく。院は忠節の言葉にいたく喜ばれ、満足げに姿を消してゆく。

 「雨月物語 白峯の巻」も趣向は似ている。が、特に二点だけ触れておきたい。
 一つは、和歌による西行と崇徳の応答が記されていることだ。
 西行が御陵の前に跪き一夜の供養を勤めながら詠む・
 松山の浪の景色はかはらじをかたなく君はなりまさりけり
 「松山の波の様子は昔からちっとも変わりはないのに、君のご様子はすっかりお変わりになってしまいました」
 と、崇徳が「先ほどの歌に返歌を贈ろう」と姿を現す。
 松山の浪にながれてこし船のやがてむなしくなりにけるかな
 「松山の波に乗って流れ着いた船だったが、あっという間に跡形もなくなってしまったなぁ」
 もう一つは、西行と崇徳のやりとりの凄まじさだ。姿を現した崇徳を西行が諫める。崇徳が述べる恨み辛みを諫める様はさながら「諫言」そのものなのだ。
 西行。「私の前に姿を現して下さったのはありがたいが、この世のことはお忘れになるよう励み、仏の地位におつきください」。新院(崇徳)。「お前は知らぬな、近頃世の中で起こっている混乱はすべて私が起こしたことだ」。諫める西行に新院は(「保元の乱」について)「私のとった行動を人の道からはずれているとは到底言えまい」と声を荒げる。西行は怖れ気もなく、「一見道理のように見えますが私欲というものから離れてはおりませぬ」と迫る。
 すると、崇徳は長い溜息をついて「お前がことを正して問うたのは、道理にあわぬことではない。しかしそれが何だというのだ」と大乗経五部を写経し、歌を添えて送った悲嘆の心境を吐露する。
 浜千鳥跡はみやこにかよへども身は松山に音をのみぞ鳴く
 さらに、怨念に満ちた独白は続き、果ては(「平治の乱」の顛末も)「自分が仕組んだ」と言い、「今に見ておれ、平家の栄華もそう長くは続くまい」と予言する。しかも、「相模、相模」と鳶のような化鳥(けちょう)を呼んで、「早く重盛の命を奪い、雅仁と清盛を苦しめよ。あの憎き敵どもを全て瀬戸内海に沈めるのだ」と迫る。
 泰然と崇徳に対峙していた西行は、仏縁にすがるよう説得の意をこめて、再び一首の歌を書く。
 よしや君むかしの玉の床とてもかからん後はいかにかはせむ
 ここでは歌意が大転換する。「例え君が昔は玉座にお座りになっていたとしても、こうなってしまえばそれが何になるというのでしょうか。帝も平民も変わりがないというのに」と「心あまって高らかに詠んだ」というのである。
 この言葉を聞いて、崇徳は感心したのか、納得したのか、表情も和らぎ、陰火も薄くなり、崇徳の姿も化鳥もどこかへ行ってしまった。西行はその後の事態が新院のいった通りだったので、謹んで深く語ろうとしなかった、という。
 「白峯の巻」は(源平合戦の顛末が)「新院のお言葉と少しも違いなかったのは恐ろしく怪しい語り草である」と結ぶ。

 なお、『椿説弓張月』(1807年-1811年、曲亭馬琴作)にも崇徳が「怨霊」と化す場面が描出されており、その瞬間を描いた歌川国芳の浮世絵もよく知られるようだ。しかし、物語自体は源義朝が流転のあげく「琉球王国」を築くというものなので割愛した。