私家版・寺内町・露子ガイド 2

一 石上露子のこと
● 本名杉山タカ 杉山家最後の当主(一八八二〜一九五九・M一五〜S三四) 〇三年新詩社(明星)入社
 杉山家の跡取り娘として生まれる。与謝野鉄幹の『明星』に短歌や詩、掌編小説や随想を執筆。相愛の人との恋を諦め婿をとり、家業を継ぐ。作品には、閉塞された時代への悲痛な思いが投影している。
● 「きのふにつゞいて今日はまた某村の年貢取、納米日、数人の手代と下男はそこの支配人の宅へ。やがて続々とはこばれてくる米俵の山のクルマ、五台、十台、夜に入ってもまだつゞく。運賃の支払、再度の品質検査、提燈の火が右往左往する。華やかな光景、かうしたかげにものでよんだ様な悲惨な事柄がおきてゐなければいいが。/星氷る夜空に私は祈りたいやうな」(自伝・落葉の国)
● 〇四年(M三十七年)七月一日、ゆふちどり(露子・二三歳)の名で「明星(辰年第七号)」に五首掲載
。
  
 みいくさにこよひ誰(た)が死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる

 平出露花(修)が、「最近の短歌」で「辰歳第七号『あこがれ』の夕ちどり君の作、何れも完璧。戦争を謡うて斯の如く真摯に斯の如く悽愴なるもの他に其代を見ざる処、我はほこりかに世に示して文学の本質なるものを説明して見たい」と、絶賛。
● 深窓の令嬢・麗人ながら進取の気風に富む 婦女新聞、平民新聞購読 大阪平民社や社会主義者へのカンパなど
 「一たいいま慈善というものは、どうしたところから出来て参ったものだとお思い遊ばします。薄幸な工女や工夫や、さてはいぢらしい貧民の子弟等が見る目も苦しき労働より生じた幾多の血しほの、黄金と化し再びをまた、彼等が上に帰りゆくのに外ならない。取ったものをここに返す、何のそれが誇るに足るべき事で御座いませう、慈善事業の気高さのなんのと、何がさまでに賞賛に価ひいたしましょうぞ。それも最、取ったすべてを立派に彼らに返すとならば当然ゆくべき正しい道の名にもかなひませうがそうでは無い」(「あきらめ主義」婦人世界六八号・〇七年一月・匿名)
● 〇七年(M四〇年)一二月一七日長田正平との想いをあきらめ、片山壮平(のち長三郎)を婿養子に迎える。露子二六歳。
 結婚前夜の歌に

 黒髪に夢のからなるわれ掩ひ柩のくるま人の送る日 
 わが涙玉とし貫きて喪にかざりさかしき道へ咀われて行く


● 二重の意味での絶唱「小板橋」(同年一二月「明星」・署名・ゆふちどり)

   ゆきずりのわが小板橋 しらしらとひと枝のうばら 
   いづこより流れか寄りし。
   君まつと踏みし夕に いひしらずしみて匂いき。

   今はとて思ひて痛みて 君が名も夢も捨てむと
   なげきつつ夕わたれば、
   あゝうばら、あともとどめず、 小板橋ひとりゆらめく


 「一生に一冊の詩集を出し、春月が露子の詩一篇を拾いあげたように、誰かがのちに何かの詞華集に採ってくれるのを待つ心境に在った」(伊藤整。『若き日の肖像』)
● 〇八年(M四一年)筆を折る(夫の強要とも)。五月新詩社「社中消息」に退社の報道。一〇年長男(善郎)、一一年長女(禮)、一五年次男(好彦)出生。一七年人工流産。三一年作歌活動再開・「冬柏」。この間、京都、大阪・浜寺に在す。四一年長男没。四五年四月一四日夫没。四六年富田林に還る。五六年次男浜寺の家で没(自殺)。五九年脳出血で急逝、享年七八歳。

☆ こぼれ話 ☆  
● 露子は、保守的になりがちな旧家の跡取り娘でありながら、晩年は日本共産党の理解者となり、1956 年の春に日本共産党河南地区委員会に、家の納屋の一部を無償で開放し、青年達がここでマルクス主義を学習したり、労働歌を歌っていたという。
              *納屋 : 正確には「板持蔵」という蔵
● 露子亡き後、荒れるままだった杉山家の建物を解体修理し、街並み保存の中心的存在としてよみがえらせる先頭にたったのが日本共産党市議団でした。
          (石月静恵・「女性の広場」・98年8月号)
by itya-tyan | 2010-11-11 14:57 | 冨田林・寺内町、そして露子 | Trackback | Comments(0)
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