大津絵 戯れ事川柳 end

* 終わりに 大津絵あれこれ *

 何気なく手に取った大津絵だし、順序も坊主めくりのように手当たり次第でした。でも折角だから、もう少し大津絵のことを確認しておきたいと思います。
 大津絵は確かに庶民のものには違いないけれど、由緒あるものだからです。その諧謔、諷刺は愉しく、ボクが川柳もどきにイタズラしてみようと思わせるに充分でした。

 ネットでは、大津絵のことがよく分かる解説が幾つもあります。
 大津絵の店(クリック)もその一つです。
 ここでは、大津絵概説・大津絵略年表・高橋松山略歴・大津絵十種・大津絵の鬼・大津絵と俳句・画題覚え書きが詳述されています。
 大津絵美術館(クリック)では、展示品が紹介されています。
 youtubeの大津絵(7:32)(クリック)には、高橋松山氏が登場しておられ、かなり詳しいことが分かります。

 大津絵節というものがあることは今回初めて知りました。ボクはず〜っと昔、子どもの頃にある種の大人たちが愉しみに聴いたり、唸ったりしているのを見かけたことはありますが、小唄、端唄のことは全く知りません。でも、今でも愛好家はかなりおられるらしく、youtubeにも少なからずアップされていることが分かりました。
 ただ、音源は蓄音機でSPを聴くものがほとんどで聞き取りにくいことは否めません。ここでは一つだけ、小唄 大津絵(クリック)だけを紹介しておきましょう。比較的聞きよい音源だったからです。

 さて、これで「大津絵 戯れ事」はお終いです。如何でしたでしょうか。ボクは大津の街はその昔、庶民文化、東西文化の交差点だったことが分かって、とても収穫だったような気がします。

    鬼奴猿も大津を往き来する

<追記>
 文中「東西文化の交差点」と書きましたが、これは言葉のあやで実際には「東西南北文化の交差点」とするのが正しかったでしょう。
 なぜなら、この地方は浪速、京、江戸への交差点(東西)だけでなく、若狭・備前や伊勢、紀伊をつなぐ交差点(南北)でもあったからです。
 当時の古地図などを見ると、地図の「東西」はかなりリアルですが、「南北」の描き方にはかなり不自然なものがあります。これは当時「南北」についての認識がかなり「あやふや」だったことの反映です。                                  2012.10.02.記