杉山家住宅・山岡鉄舟の扁額のこと
杉山家住宅には、山岡鉄舟が滞在の折りに書き残したと伝えられる扁額があります。
何と読むか、覚束ないので確認してみると関西史跡散策会・通称KSS会のブログに行き当たりました。
それによれば
扁額であるから 右から左へ
「生前ノ富貴ハ学ビテ頭露(あらわ)シ 身後風流ハ陌上ノ花ナリ」
=現世で富や身分が高くなりても 死後に至れば威風もやがては路上に捨てられた花のように儚いものである=蘇軾の詩の一節である。
とあります。
ボクも、これが蘇軾の詩をひいたものであることは気づいていました。原詩は<陌上花(はくじょうのはな)>という詩でしょう。しかし、合点がいかなかったのは原詩と違うところがあるからで、解釈の仕方にも少し物足りないところも感じます。
どう見ても、原詩は以下の通りです。
游九仙山,聞里中兒歌《陌上花》。父老云:吳越王妃每歲春必歸臨安,王以書遺妃曰:"陌上花開,可緩緩歸矣。"吳人用其語為歌,含思宛轉,聽之凄然,而其詞鄙野,為易之云。
陌上花開蝴蝶飛,江山猶是昔人非。
遺民幾度垂垂老,游女長歌緩緩歸。
陌上山花無數開,路人爭看翠駢來。
若為留得堂堂去,且更從教緩緩回。
生前富貴草頭露,身后風流陌上花。
已作遲遲君去魯,猶歌緩緩妾回家。
該当の所だけを抜き出してみると
生前富貴草頭露 身後風流陌上花
生前の富貴は草頭の露、身後の風流は陌上の花
となります。
*草頭露 草葉の先の露。はかなく、長続きしないたとえ。
*身後(しんご) 死んだ後。死後。没後。
*陌上(はくじょう)《「陌」は道の意》路上。道のあたり。
あぜ道のあたり。
もう一度、鉄舟の扁額を見直し、右から左へ読んでみます。
花上陌流風後身露頭学貴富前生
原詩も右から左へ並べ直してみます
花上陌流風後身露頭草貴富前生
鉄舟は草頭露と書くべきところを、学頭露と書き間違えたのでしょうか?まさか!鉄舟ともあろう人が、揮毫するにあたって間違うはずがありません。素朴ながら、長い間解りかねていました。
そして、この度ようやく気づいたことがあります。
この改作は鉄舟の風流であり、世辞(お世辞ではありません)だったのだということです。
鉄舟が杉山家にしばらくの間、逗留したはずです。その間に杉山家当主の博識、勉強ぶりを目にしたことでしょう。杉山家には少なからぬ蔵書があり、当主はおろか一族が通じていると実感したのではないでしょうか。
その蔵書については、ボクのブログでも紹介したことがあります。
富田林・杉山家の蔵書(クリック)
揮毫にあたって、逗留させてもらい、世話になっている当主に「あなたの富貴は草頭の露だ」というワケにもいかないでしょう。そこで鉄舟は「学んで頭角をあらわしています」と世辞を述べたのです。敬意を表すとともに鉄舟の茶目っ気でもあったのでしょう。
ですから、このくだり
生前富貴学頭露 身後風流陌上花は
生前の富貴は学びて頭を露わし、身後の風流は陌上の花なりと読み下し
存命中の富貴は良く学んで頭角をあらわすことだが、没後は路傍の花と覚悟するところに風流があると解するのが適切ではないか、と考えるにいたりました。
単なる、蘇軾の詩の模倣、改作ではなかったのです。
なお、関西史跡散策会・通称KSS会のブログはここです(クリック)。