昨日、少しアップしたように「評伝 管野須賀子〜火のように生きて〜(堀和恵著)」を半日かけて読んだ。その感想の一端をまとめておきたい。 「評伝」とあるからには須賀子の人物評価と伝記のないまぜになったものであることは違いない。だが、ボクは帯にある「現代に蘇る!」という言葉に目を惹かれた。「一人の女性のフレームアップされた虚像を剥いだ、真実の姿」がどのように描かれているのか、そこに関心を惹かれたのだ。
ボクが真っ先にあげたいのは、著者はおびただしい資料を渉猟し、あちこちの現場を逍遥して、今日的な感慨を表現されていることだった。
大逆事件そのものが大がかりなフレームアップ(デッチあげ)によるものであり、断じて刑の執行など許されるものではなかった。そのことは、ようやく幾ばくかの人々の間では「常識」になろうとしている。その多くは「史実」として語り継がれている。
しかし、唯一の女性の犠牲者、管野須賀子にまとわりついた「妖婦」「毒婦」伝説は根強く、良識ある人々の間では克服されているとはいうものの、ある種の「贔屓」とみなす人さえ残されている。
本書はそのタチの悪い「伝説」を須賀子の生い立ち、ジャーナリストとしての論陣、様々な局面での「愛と葛藤」の実像に触れ、解明している。有名な荒畑寒村や幸徳秋水との触れあいと、すれ違いの実相などはそれだけで読むに値する。
正義感の強さ、女性らしい喜怒、子どもたちへの優しさの点描を活写する筆致は素晴らしいものだ。
二つ目に挙げたいのは、もちろん「大逆事件」をめぐる背景についての論述だ。事件の「被告」とされた人達の「無政府・共産」、社会主義やアナーキズムについての理解の度合いがまちまちであったこと、その経過についての表現もほぼ適切だろう。
単なる理想、空想に近かった「社会主義」が、そのプロパガンダのあり方を巡って初期の社会主義者が「直接行動派」と「議会政策派」に分かれる兆しが見えはじめていたこと。事件の首謀者とされる幸徳秋水が「直接行動派」から身を引き始めようとしていたことなどは注目しておきたい。
では、どうしてこのようなフレームアップが成立したのか。その際、司法当局の間には何の矛盾もなかったのか。その間の事情についての記述も参考になる。特に、平沼騏一郎の野望の凄まじさは肝に銘じておくべきだろう。
獄中での須賀子の言動、デッチあげへの糾弾、針文字、「死出の道艸(しでのみちくさ)」、平出修弁護士との関わりなどはよく知られていることではあるが、現物を読んでいない人のためには格好の解説書となっているのではないか。
さて、最後に触れておきたいのは、第5章「そして、その後」のくだりが設けられ、「ヤヌスの苦悩 ー 森鴎外」「伝搬する周波 ー 石川啄木」「真情のバトンタッチ ー 堺真柄」に触れられていることに注目しておきたい。石川啄木がこの事件について多大の関心を持っていたこと、かなりの衝撃を受け、義憤に耐えかねていたことはよく知られている。が、著者が森鴎外や堺真柄にも目を届かせていることは、評価に値するのではないか。知る人ぞ知る、逸話ではあるのだが…!
最後に、本書でも紹介されている須賀子の辞世の句を掲げて、筆を置く。
残しゆく
我が二十とせ(はたとせ)の玉の緒を
百とせ(ももとせ)のちの 君にささげむ
著者は書く。
百年後の君とは、私たちのことではないだろうか。