大阪観察月記 08・09・22

橋下知事の教育暴言を考える

▼「このざまは何だ。教育委員会は最悪だ」、「みんなお飾りだ」、「クソ教育委員会」、「(教育委員会は)関東軍みたい」。8月末から9月中旬にかけて橋下知事の暴言が連発された。衆人の耳目を集める「劇場型」の演出と見る向きもあるそうだが、筆者はむしろ「激情型」の危なっかしさを懸念する。「おかんに怒られたからもう使わない」などと冗談ですませる話ではない。

▼そもそも全国規模で行われる「学力テスト」とは一体何だったのか。政府は今回の「学力テスト」再開にあたって「児童生徒の学力状況の把握・分析、これに基づく指導方法の改善・向上を図るため…」と称していたのだから、テストの結果はまず、この間、学習指導要領などに盛り込んできた内容の適不適、教育環境や教育条件整備の適不適を吟味することが先決であり、文科省などが虚心に参照すべきものだ。
▼その反省や教訓を明示することなく結果だけを公表すれば、とんでもない事態が起こることは容易に想定できた。文科省は60年代に行われた「全国学力テスト(学テ)」が「学校や地域間の競争が過熱したこと」、ひいては旭川地方裁判所の「違法」判決を経て「中止」にいたった教訓をどう学んでいたのか。

▼安倍首相(当時)は今回のテストについて「個々の市町村名や学校名を明らかにした結果の公表は行わない。序列化や過度な競争をあおらない」などと明言していた。実務上の責任者である文科省の高口努氏もテストを請け負ったベネッセのホームページ上で「国に対して情報公開法に基づく公開請求があった場合には、不開示情報として扱いますが、各自治体の条例に基づく請求に対しても、同じ方針で臨んでください」と明記していたではないか。今、地方で、なかんずく大阪でおこっている「混乱」は正に政府や文科省の高見の見物、無責任から起こっていると言っても過言ではない。橋本知事は激情の刃を地方の教育委員会に向けるべきではない。

▼橋下知事の予算や「人事権」をカタにとった恫喝も見過ごせない。標的は「教育の中立性」にある。一般に「教育の中立性」は戦前の絶対主義的教育の反省から確立されたと解する向きが多い。それはそうだが、この際「教育の自由」という観点から捉え直しておく必要があるのではないか。そもそも教育という営みは、真実や真理に忠実でなければならず、そのためには時の権力や政治支配からの独立・自由が求められる。なぜなら、時の権力、時の多数派、時代の常識が必ずしも真理や真実であるとは限らず、被支配・少数派・非常識の中に真実・真理が含まれている場合がしばしばあったし、今もあるからだ。だからこそ、改悪前の教育基本法はこのことを「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負って行われるべきもの」と述べていた。文面は改悪されても、小坂憲次文科相(当時)は国会で「国家的介入は抑制的であるべき」と認めざるを得なかった。地方においても「首長部局の介入は抑制的であるべき」なのだ。抑制のきかない激情型の介入は、冷静な党派を超えた団結の力で跳ね返すしかない。

☆ この直後に、中山氏の暴言が問題となり、大臣辞任、ついには次期総選挙での立候補取りやめとなったことは、意味深い…!