近年、反戦・プロレタリア川柳作家鶴彬(つるあきら)がマスコミ紙にもしばしば登場、大阪城公園・衛戌(えいじゅ)監獄跡地に記念碑建立など、再評価の機運が盛り上がっています。今年に入って小説が上梓され、映画「鶴彬 こころの軌跡」(神山征二郎監督)も完成しました。

少年・喜多一児衝撃のデビュー
 
 鶴彬の本名は喜多一二(きたかつじ)。明治四二年(一九〇九年)石川県河北郡高松町の生まれ。幼くして父を亡くし、母は再婚して上京。女工十人ばかりを置く機場(はたば・羽二重を織る工場)を営む伯父の養子となります。成績優秀な少年でしたが師範学校進学の念願叶わず、家業を手伝うかたわら川柳に惹かれてゆきます。
 その一二が衝撃のデビューを果たしたのは僅か一六歳の時でした。この頃の作品に「暴風と海との恋をみましたか」、「神さまよ今日のごはんがたりませぬ」があります。
 私がとても驚いたのは「喜多一児」というペンネームで柳誌「影像」に掲載された「革新の言葉」という評論です。「如何なる時代においても、生活様式が、哲学が、宗教が、クライマックスに達した次の瞬間において必ずや革新運動の起立した事は過古(ママ)の歴史をたどる時において明瞭である。そしてその革新運動は伝統の域を護る人々から異端視され、虐待されつゝも、やがて次の新時代を樹立した事も見逃すべからざる事実である」と川柳革新の決意が述べられ、自身についても「『自我の革新』こそ真の革新である!」と書き、「『マッチの棒の燃焼に似たる生命』/これが本当の川柳ではなかろうか。/しかし私は、それを発表するだけの勇気はなかった。…指導者なく、参考書なく真に孤独の奮闘を重ねた私は、今漸く微かな光を認め得るようになった。私は此の内的必然進展を尊く思う。…私の革新意図は度を強めた。…今私は黎明をみとめたのである。…地を歩む詩人なれ/大地を踏破するネオ・ロマンチストなれ…こうした努力が私を『沈黙』にさすか。将亦よりよき生命詩人を生み出すかは知り得ない。/ただ私はひたすら前進する。前進する」と述べているのです。
幼少期から「暗黒政治」の世相かぎ取る

 小学生の頃から新聞に目を通していたという早熟、利発な少年一二は、日清・日露戦争時のことや「富国強兵(=近代的軍事力の創設・増強)」と「殖産興業(=資本主義的生産様式への移行)」のもとで後に「財閥」となる巨大資本の形成。その影に泣く職工や女工、農村の疲弊、軍や警察の横暴などの世相を敏感に嗅ぎ取っていたのでしょう。横暴を極める権力者達への諧謔・諷刺、虐げられる者への限りない共感・連帯の作風の土壌は幼い頃から培われてきたと言えるように思います。
 一児少年は当初、抒情風の川柳をものし、青年期の一二は「生命主義川柳」を経て、レーニンの「何をなすべきか」を模したであろう「僕らは何を為すべきや」という評論で「社会主義派川柳」に拠ることを宣言します。時に一八歳でした。
 その一二が本格的に「プロレタリヤ川柳」を標榜したのは一九二八年五月、柳誌「氷原」に「生命派の陣営に与ふ」という評論を発表した一九歳の時です。「別題ーブルジョア神秘主義川柳史観を克服ープロレタリヤ川柳の無神論的立場を明瞭にするの一文」という副題が付けられていました。別の評論では「新興川柳はいづこへー直ちに答へる。無産階級ー。来るべき新時代を創造するものは実にこのプロレタリア階級であるからである」とも書いています。
 この間、一二は家業の不振により大阪に出て、四貫島の町工場で重労働に耐える経験を積みました。また、「社会主義派川柳」を唱えていた森田一二という先輩柳人の感化も受け、東京に出て川柳の革新運動に尽くしていた井上剣花坊やその夫人信子、娘鶴子等とも親しくつきあう一方、無産者新聞社の仕事を手伝ったりしていました。
 一二が帰郷したのは二八年二月ですが、あの「三・一五大弾圧」の直後、三月二五日に全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成されています。一二は旬日をおかず「ナップ高松支部」を結成し、五月に「プロレタリア川柳」の旗を掲げたのです。
喜多一二「抹消」の事情は…

一二は二八年七月に「無産川柳の本質は既に出来上がっている。ある特殊な事情よりして、僕は本稿を最後にして、喜多一二の名を新興川柳界より抹消しなければならない」と書きました。「抹消」を要する「特殊な事情」とは何だったのでしょう。一二はこの頃、伯父の一家から「離籍」を考え、母に強くたしなめられたとされています。一見「恩知らず」と思われる「離籍」の決意は名実ともにプロレタリア(文化・芸術)運動に身を投ずる決意を固めた上で、伯父や兄弟達に迫害の累が及ばないよう配慮した結果だったのではないでしょうか。以後、川柳界から喜多一二の名は消え、鶴彬が登場します。大勢の見るところ鶴彬は日本共産党の「党員ではなかった」ようです。しかし、入党の呼びかけ(勧告)があればいつでもこれに応える準備は整っていたのではないでしょうか。これが果たせなかったのは、徴兵された軍の中で反戦的な言動、無産者新聞配布などで重営倉に放り込まれ(三〇年)、大阪の衛戌監獄に投獄(三一年)され、最後には「手と足をもいだ丸太にしてかへし」など六句が「治安維持法違反」として獄につながれたうえ、不審な病死(三八年・二九歳)に至るという転変の結果、その機会が失われたことによるものでしょう。
鶴彬の号にこめられた決意

 なお、鶴彬の号について田辺聖子氏は剣花坊の娘、鶴子さんにこと寄せたとする説を「研究者達はその〈伝説〉を信じたがっている」と優しい文章を書いています。が、かほく市で発行された「高松歴史新聞」は「鶴林(かくりん)の林にさんづくりをつけた彬」とし「悟りの境地」としています。鶴林とは広辞苑によれば「釈尊の入滅を悲しみ、沙羅双樹が鶴の羽のように白く変わって枯死したという伝説に基づく沙羅双樹林」とあります。また、彬という字は漢字源に「ひん」と読むこと、「彬彬(ひんぴん)とは、並びそろうさま。外形も内容もともによいさま」とあり、「文質彬彬、然後君子」という論語を引き、「文質彬彬として、然る後に君子なり」と読ませています。
 思うに、鶴彬は川柳を短詩形文学の位置に高め、時代を告発する「文質彬彬」たる川柳の境地を切り開く決意をこの号に込めていたのではないでしょうか。
職場のバルコニーに立って…
空を見上げる…。
日課のようなものだ…!
ん?
何だかわけがわからない…!
この変わりようにとまどうばかり…?
なんか、智恵子抄など思い出す!
「東京には空がない」なんてネ!

昨年末と今年5月、ほぼ同じアングルなんだよね!
ホントに「空が狭くなる」… (・o・)

大阪の空が狭くなる…!_b0142158_20582799.jpg大阪の空が狭くなる…!_b0142158_2058543.jpg


☆ 左は昨年12月、右は今年5月に撮影。右は全景を入れるため、少しだけアングルを変えざるをえませんでした。